「ドイツ打倒」を決意したイギリスがしたこと
1890年当時、イギリスは、フランス、ロシアと「植民地獲得競争」に明け暮れていました。フランスとは、アフリカとインドシナで競走していた。ロシアとは、中央アジアで競争していた。それで、イギリスにとって、
- 仮想敵ナンバー1=フランス
- 仮想的ナンバー2=ロシア
だったのです。ところが、イギリスがフランス、ロシアと争っているうちに、「あれよあれよ」とドイツが台頭してきて、最大の脅威になってきた。それで、イギリスはどうしたか? 仮想敵ナンバー1、フランスと「和解」したのです。英仏は、
- モロッコ問題
- ニューファンドランド島問題
- タイ問題
- 東アフリカ、中央アフリカ問題
- マダガスカル島問題
- ニューヘブリデス諸島問題
などを、急速に解決していきました。1904年までに和解を完了したイギリスとフランス。今度は両国一体化して、ドイツの海洋進出を阻むようになっていきます。
仮想敵ナンバー1と和解したイギリス。今度は、仮想敵ナンバー2ロシアとの和解に動きます。1907年8月、イギリスとロシアは、「英露協商」を締結しました。さらにイギリスは1902年、日英同盟を締結。ドイツが日本と組む道を閉ざしました。もう1つの重要なファクターがアメリカです。イギリスは、「あらゆる犠牲を払ってもアメリカと良好な関係を保つこと」を決意し、そのようにしました。
こうして、1890年時点でドイツに「覇権を奪われるか???」と恐怖していたイギリス。1907年までに、フランス、ロシア、日本、アメリカを味方につけることに成功したのです。結果、ドイツには、弱い同盟国しか残りませんでした。それは、
- オーストリア=ハンガリー帝国(民族紛争がひどかった)
- イタリア(弱い軍隊しかなかった)
- オスマン帝国(近代化できず、なおかつイタリアと仲が悪い)
結果、どうなったか? 皆さんご存知です。1914年にはじまった第1次世界大戦で、ドイツは完敗したのです。しかし、ドイツが負けることは、イギリスが1907年までに、フランス、ロシア、日本、アメリカを味方につけた時点で決まっていたのです。
国力でドイツに劣るイギリスが勝利できた要因は2つです。
- 「外交力」によって、有力な国々を味方につけることできた(そのために、イギリスは、大きな譲歩をしている)
- 外交を導く、確固たる「大戦略」があった
一方、強い経済、強い軍隊があったドイツは、それにあまりも頼りすぎ、「大戦略」でイギリスに負けたのです。ルトワックさんはいいます。
最終的な結果を決めるのは、それらよりもさらに高い大戦略レベルである。
ドイツ陸軍が1914年から1918年にかけて獲得した、数多くの戦術・作戦レベルの勝利でさえも、より高い戦略レベルを打ち破り、そのトップの大戦略レベルまで到達することはなかった。
したがって、ドイツ陸軍の激しい戦いは何も達成しなかったのであり、それはまるで彼らが最高ではなく、最低の軍隊であることを証明してしまったのと同じなのだ。
(p98)
皆さん、イギリスとドイツの話を読まれてどう思われましたか? 私は、第2次大戦前、戦中の日本のことを思い出しました。日本軍は中国軍に連戦連勝でした。戦術では、いつも勝っていたのです。ところが、軍隊が弱いことを自覚していた中国は、「外交によって味方を増やすこと」にパワーを集中させていました。結果、1937年に日中戦争がはじまったとき、中国は、アメリカ、イギリス、ソ連の3大国から支援を受けていたのです。
自国の軍事力を一番に考えた日本。(軍隊が弱いので)外交を一番に考えた中国。勝ったのは、弱い軍隊の中国だったのです。