【京都】絶世の美女・常盤御前の生涯と、義経が剣を磨いた鞍馬寺

 

平治の乱で源氏の棟梁だった義朝が敗れます。義朝一族は平氏によって殺されましたが、嫡男の頼朝は伊豆へ流刑。常盤御前は子供たちと逃亡したとされています。すると平氏によってその残党狩りが行われました。常盤御前はなおも子供を連れて逃げ回ります。しかし母親が拷問に掛けられていると聞き、3人の子供と共に平清盛の元に自首します。

このとき、すでに義朝の嫡男・頼朝が助命されていました。なので常盤御前やその子供達は助命されることが決まっていました。でもそのような事を知らない常盤御前は必死に子供達の助命を平清盛に懇願したのです。

その結果、上の子2人は直ちに寺に入れられ出家し、赤ん坊だった義経は暫くして寺に入れられることになりました。平氏の棟梁だった平清盛は助命嘆願を聞き入れる代わりに常盤御前を側室にしたと伝えられています。数年後、常盤御前が清盛との間に子供を授かったことで義経の居場所は徐々になくなります。

1169年、10歳の義経は京都の鞍馬寺に預けられました。その時、平清盛の元で育ったにも関わらず自分は源氏の血を引く者だと知ります。僧侶の修行から一転、武者修行に打ち込むようになった義経は平家討伐を誓うようになりました。15歳で鞍馬寺を抜け出して元服し武蔵坊弁慶を家臣にしたのもこの頃でした。

義経が20歳の時に転機が訪れます。流刑されていた兄・頼朝が平家討伐の兵を挙げたのです。これを聞いた義経は戦いに参加しました。20年来生き別れになっていた兄と涙の対面を果たした義経は平家打倒を誓い合ったのです。幼くして父を失い、敵方の側室となった母にも見捨てられた義経。命がけで敵方の平清盛に懇願して自分を守ってくれた母への想いは複雑だったでしょう。でもこの時、血を分けた兄のために尽くすという一途な思いが湧き起こったに違いありません。

その後は平家打倒で兄弟力を合わせますが、義経のあまりの善戦に兄・頼朝も警戒し不仲になっていきます。しかし、源氏は壇ノ浦で平家を滅亡まで追い込んでいくのでした。

平清盛は自らの武士の情けが数十年後に災いしました。幼かった源頼朝を生かしておいたこと、常盤御前の美貌に目がくらんだこと(?)で不覚にも平家は滅亡してしまうのでした。

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