「和菓子のソニー」と呼ばれた銘店の三代目が感じる「危機感」

 

和菓子の常識を打ち破れ!カリスマ創業者、誕生秘話

滋賀県大津市の住宅街には小さな店、長等本店が叶匠壽庵の創業の地だ。三代目社長の芝田は、ひまを見つけてはこの店に立ち寄っている。芝田がこの小さな店の門をたたいたのは20歳のとき。ここで初代・清次から、和菓子職人としてのイロハを叩き込まれた。

「お客様、消費者に対して正直にきちっとしたものをお作りしないといかんと。そういうところで間違ったことをすると、すごく怖かったですね」

一代にして叶匠壽庵を人気の和菓子店に仕立て上げた創業者の芝田清次は強烈な個性の人物だったという。

清次は1919年、大津の生まれ。18歳のとき徴兵され日中戦争に従軍。敵の銃撃を受け、左目を失った。帰国した清次の残された目に飛び込んできたのは、花と緑あふれる故郷の風景。生きている喜びを感じたという。大津市役所勤務を経て、39歳のとき、故郷の自然を和菓子で表現したいと考え叶匠壽庵を創業した。

創業間もなく職人見習いとして入社した岩岡和男(現顧問)は、清次の菓子には技術を超えた「思い」がこもっていたという。

「自分自身も戦争に行って帰ってきた。命がけという思いでしておられましたから、お菓子に対する情熱というのが半端ではなかったです」

清次が最初に作ったのが「道標(みちしるべ)」という最中。毎日、祈りながら餡を炊いたという。

創業から半年ほどたったある日、転機が訪れる。店の前に黒塗りの車が止まると、ステテコ姿の男が降りてきた。男は店に入るなり、「この前知人からお宅の最中をもらってな。あの味が忘れられへんのや」と言う。そしてこう続けた。

「あんたのお菓子にワシは『祈り』を感じたんや。ここにあるもんを全部くれ!」

自分が菓子に込めた「祈りをわかってくれる人がいる。そう思った清次は、涙ながらに見送ったという。

後にこの男性は、伊藤忠商事の当時の社長越後正一氏だったことがわかる。越後氏との縁から、パナソニック創業者の松下幸之助氏など多くの財界著名人が次々とお得意さんになり、経営が軌道に乗っていった。

さらに、岩岡は、清次には優れた感性があったと言う。

「厳しいというか、感覚がすごいんですよね。今から思うと素晴らしい発想力を持っていた」

たとえば、雲の合間から夕日が姿を現し、空が見事なピンク色に染まったある日。清次は職人たちにその光景を見せながら、「あの夕日のイメージをお菓子に!」と言った。岩岡は卵白や食紅で夕日を表現した「鄙の艶(ひなのつや)」を考案、ヒット商品になった。

また、ある日、宴会に招かれた清次。宴もたけなわになったころ、芸者がつまずき、胸が偶然、清次の手に当たった。「この柔らかい感触を、お菓子にしたい!」と、清次。このときも岩岡はすぐに試作品を作ったが、「わしが求めているのは、こんなお菓子やない。やり直しや!」と怒鳴られたという。

自分が感動しないお菓子はお菓子じゃないという思いがあるので、その場で下に投げられたり、ぶつけられたり……やわらかい餅のお菓子ができましてね。そのときは泣いていましたよね、感動して」(岩岡)

岩岡はゆずのジャムを寒天と餅でくるみ、清次のイメージを形にした。

自然と菓子作りの融合、そしてカリスマ経営を超えて

1982年、長男・清邦が2代目社長に就任。叶匠壽庵の基盤を、より強固なものにしていく。

清邦はときに父・清次と対立しながらも、「農工ひとつの理念を掲げ、和菓子づくりの理想郷、「寿長生の郷」を作り上げた。さらに、デパ地下などへの出店も拡大。叶匠壽庵を全国区に仕立て上げたのだ。

二代に渡る強烈なリーダーの跡を継いだ芝田はカリスマ経営とは違う道を目指しているという。社員を前にたびたび口にする言葉がある。

「叶匠壽庵は道のないところに道を作る精神で、初代、二代はやってきた。自分の力ではできないが、皆さんの力を借りれば、ひょっとしたら会長(二代目)より大きいことができるかもしれない」

三代目になって5年、社内に変化が起きているという。社員たちからは「社長の方が先に自分の意見を言われるのではなく、『どう思う?』と言っていただけるのは、前とは違うところかもしれない」「初代と二代目がカリスマ的とおっしゃっているが、みんなの力を集めて一つにすればそれに負けないぐらいのパワーを持っていると言ってくれているので、風通しも良くてやりがいは上がっていると感じます」という声が聞かれた。

社員の総合力で、叶匠壽庵はさらなる発展を目指す。

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