ところで、そもそも死刑は憲法違反ではないのだろうか。日本国憲法第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とある。
戦後間もない1946年に起きた殺人事件に関し、死刑判決を受けた被告・弁護側は「日本国憲法第36条によって禁じられている公務員による拷問や残虐刑の禁止に抵触している。そもそも『残虐な殺人』と『人道的な殺人』とが存在するというのであれば、かえって生命の尊厳を損ねる」と主張した。
これについて最高裁大法廷は1948年3月12日、「死刑制度は合憲」との判決を下し、上告を棄却した。そのさい、示したのが下記の憲法13条である。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
公共の福祉に反しない限りにおいて個人として生命が尊重されるのであって、反していればその権利は剥奪される、という見解である。
戦後日本においてもこうして死刑制度は定着した。しかし、死刑執行が一件もなかった年が3年間ある。1990年から1992年まで。明治以来初めてのことだった。国連の死刑廃止条約が1991年に発効し、死刑を廃止しようという国際的な潮流が強まってきたことが背景にあった。
ヨーロッパの主要国で最後まで死刑制度を維持していたのはフランスだが、1981年に廃止された。その年の大統領選挙でミッテランが公約して実現した。教会が主導し死刑廃止の機運を盛り上げたといわれる。
ヨーロッパの死刑廃止論は、裁判官も人間であり、間違いをおかすことがあるという考えが基本になっている。事実、古今東西、冤罪が絶えることはない。
立憲主義が大切にされるのも、政治権力者の判断がつねに正しいとは限らないからだ。憲法を為政者に守らせることによって、国民の基本的人権が侵害されないようにするのである。
死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは意見の分かれるところであろう。宗教や民族性などの違いもあり、一概に判断はできない。筆者自身、この国で死刑を廃止してしまうことにはいささか不安を感じる。
しかし、麻原信仰から脱却し真に罪を悔いている人と、いまだに囚われている人とを、オウム真理教事件の名のもとに、いっしょくたにして処刑するのはいかがなものだろうか。
こういうことをしていては、死刑制度への疑問がこれまで以上に膨らんでいくかもしれない。
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