このようなケースに限らず、「いじめ被害者に問題があれば、いじめられても仕方がない」という考え方が、子供たちの間で蔓延しています。「あの子は忘れ物が多い」、「あの子は汚い」、「あいつがいると体育祭で負ける」、さらには、臭い、空気が読めない、話に割り込んでくる、自慢ばかりする、うざい、病気だ、発達障害だ、などなど、いじめる子供たちは、「だから、みんなが迷惑している。直してやっているんだ」などと主張します。このように責められると、大人でも、反論できないことも少なくありません。それどころか、「おまえが強くなればいいんだ」と言ってくる教師さえいます。
どんなことがあっても、いじめはいじめる側が悪いのです。加害者は、「自分は悪くない、叱られたくない」と主張しているのに過ぎないのです。
また、多くの子が「いじめられる子にも原因がある」という考えに賛同する背景には、どこかの時点で、似たような子に迷惑をかけられた経験があるために、「あいつなんか、いじめられればいいんだ」という小さな復讐心があるのだろうと思います。
しかし、欠点のない人間などいません。しかもその欠点は成長していくに従って改善されていくものです。加害者にも苦手なことや欠点はかならずあります。したがって、相手に欠点があることは、いじめていい理由にはなりません。私たち周囲の大人たちが、「苦手なことをいじめで直してやる」という考え方は間違っていると教え、出来ないことを応援したり、間違いには注意してあげ、困っていたら助け合ったりしながら、その子の成長を見守るという考え方を身を持って、教え導いていく必要があります。
また、「今すぐ直せ」、「今から強くなれ」と言われて、次の日には欠点が直っていたなどということはありえません。人間は、すぐに変わることはできません。成長するには、それなりの訓練と時間が必要なのです。くり返しますが、どんなことがあっても、いじめはいじめる側が悪いのです。ここがぶれてしまうと「いじめへの対処」できません。
さらに、いじめのきっかけとしては、嫉妬によるものもかなりあります。「あいつは俺より成績がいい」、「人気があるし」、「モテる奴は嫌いだ」など、欠点ではなくその子よりも秀でているという理不尽な理由でいじめられることもよくあります。子供たちの世界に、自分が満足するためには、あるいは勝つためには、手段を選ばない的な考え方がかなり浸透しているように見えます。「自己中」、つまり自分さえ良ければ良いという考え方が強くなりすぎています。
ですから、今年から、小学校では「道徳」が教科になりましたが、先生方には、弱い子を守ってあげること、お互いを思いやる心、「きずな」という言葉の意味が理解できる子供を育てていただきたいと思います。