「子供時代の夏休み」といえば、真っ先に宿題を思い出す方も少なくないでしょう。しかし、「宿題をなくすという選択肢は存在する」と断言するのは、現役教師の松尾英明さん。松尾さんは自身の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』に、夏休みの宿題についての進取性に満ちた考察を記しています。
古くからあるもの3タイプ
「現役教師が暴露、夏休みの宿題テキストが無くならない大人の事情」等、宿題に関する記事をここまで書いてきたので、誤解されないように書いておきたいことがある。
一つ先に付け加えると、学習指導要領には「学習習慣の形成」とは書かれているが、宿題を出すようにとは一切書かれていない。宿題=学習習慣の形成にはならないというのが現実である。
ただしそれは「だから宿題ゼロがよい」という訳では決してないということである。
子どもが学習習慣を身に付けるために敢えて「宿題をなくす」という選択肢も現代では存在する、と知ることが大切なのである。
なぜならば、全国のほとんどの小学校で、夏休みの宿題は「当然」「常識」としてある。それらを「当たり前でしょ」の一言で済ますと、思考が停止する。つまり「何のために」(=学習習慣を身に付けるため)が抜けるのである(あいさつ運動や運動会、ワークテストなど、学校教育の「常識」として存在するあらゆることにいえる)。
「当たり前」に認識されているものというのは、大抵古い。古くからあるというものは、大きく分けて3方向考えられる。
A:価値が高いのでずっと使われている
B:かつて価値があったが、存在自体が忘れ去られて放置されている
C:特によくもないが、何となく惰性で使い続けている
Aは、よく手入れして使い慣れている仕事道具(いわゆる相棒、お気に入り)のようなものである。あるいは、誰もが知るロングセラー商品のようなものである。こういったロングセラーものは、実はマイナーチェンジを繰り返しており、常に新しい。
Bは、ずっと着ないでしまわれている流行遅れの服のようなものである。「何となくもったいない」という理由で捨てられていないで、ずっとタンスの場所ふさぎをしている。毒にも薬にもならない「使われてもいないで放置」というのが他と違うポイントである。
Cは、親(または自分)が10年前から部屋着としてずっと着倒している色褪せたダサいTシャツのようなものである。かつて新しかったものだが、もはや人前に出られる状態の代物ではない。しかし、「楽」なので使いつづけている。内部でのことであり、指摘されない以上、あとまだ10年は使うかもしれない。
宿題はどれに当たるか。これは、AかCである。
価値ある使い方を考え、相手に応じて工夫していれば、Aになる。ただし、これを生み出すには、かなりの労力が必要になる。「出しっぱなし」のようなものはあり得ない。それでは、ねらいである学習習慣が身に付かないからである。日記一つ出すにしても、毎日の一つ一つに丁寧にコメントをするような労力を伴うものである。
「例年通り」で出していれば、Cになる。学習指導要領があれだけ改訂されているのに、私の小学生の時と同じ宿題が未だに出ていることが衝撃の事実である。それは、かなりダサいことである。
だとしたら、一旦やめてみるのも手である。「やめる」ということを新しくやるともいえる。それが絶対に正しいのではなく、あくまで、選択肢の一つである。ただ、できた空白によって、必ず新しい何かが生まれることだけは間違いない。ものごとには「真空を避ける」という性質があるためである。
温故知新という。古いからだめなのでもなければ、古いから正しい訳でもない。そこから、今の時代に合った新しいことを生み出すことが大切である。
学校の当たり前を見直す入口として、宿題は最適な題材ではないかと考える次第である。
image by: Shutterstock.com