『鉄腕アトム』『火の鳥』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』など、誰もが耳にしたことのある作品で知られる日本を代表する漫画家、手塚治虫。その偉大なる功績から「マンガの神様」とも言われていることは皆さんご存知の通り。
そんな手塚治虫の描いたマンガの中で、“ちょっとひと休み”と言ったシーンに出てくる「ヒョウタンツギ」や「ママー」といったキャラクターは、少年時代の手塚が、弟妹と一緒に手描きで作った手作りマンガ本『ママー探偵物語』で初めて生まれたものでした。
この『ママー探偵物語』は、今まで手塚治虫のエッセイや特集記事でその存在が知られていましたが、現物をすべて読んだ人は誰もいなかったのです。
そんなレアな作品が、その貴重な内容を一字一句変えないまま、このたび一冊の単行本として刊行されることになりました。
昭和初期に手塚少年(10歳から16歳まで)が、弟妹と描いたマンガを一冊にまとめた『ママー探偵物語』(888ブックス)は、なんと722ページという超大作。手塚治虫の大ファンで、学生時代にもらったサインが宝物というブックデザイナー・祖父江慎さんとスタッフの小野朋香さんの手によって原稿1枚1枚がていねいに復元され、読みやすくしかもこだわりの詰まった作品集に仕上がっています。
今回、その初単行本化に関わった、手塚プロダクション資料室の田中創(はじめ)さん、発行元の出版社「888ブックス」の吉田宏子さん、本書の企画・編集を担当した濱田髙志(たかゆき)さんからそれぞれの思いを伺いながら、手塚プロダクションにて貴重な『ママー探偵物語』の現物を拝見させていただきました。
手塚プロダクション資料室・田中創さんが語る、『ママー探偵物語』のココがスゴい!
この企画の原点となった資料は、手塚家から出てきたものです。その後、手塚プロダクションで保管していたのですが、なぜか誰もそのノートに何が書かれているかをチェックしていませんでした。
あるタイミングから、子どもの頃に描いた作品として兵庫県・宝塚市にある手塚治虫記念館で展示されていました。ただ展示品の宿命ですが、照明をあてて展示していたので劣化が進んできたんですね。そこで複製を展示しようということになり、手塚プロダクションに戻ってきたんです。
私はそこで初めて中身を見たのですが、いや「スゴい」としか言えなかったですね。よく残っていたなとか、こんなにいろいろ描いていたのかとか、ココに原点があったのかとか、あとからいろいろな想いが出てきますが、その時はただ「スゴい」と。そして、「これを一人占めしてはいけないな」という使命感のようなものを感じました。
ただ、これがまさか本になるとは思いませんでした。所詮はノートに描かれたものですしね。けれども、『マアチャンの日記帳』や『ロマンス島』の復刻をしてくれた濱田さんと吉田さんに話をしたところ、「単行本にしましょう!」と。
濱田さんはラクガキから文字のミスまで一字一句そのままで複製しようという意気込みでしたから、あとはおまかせすればいいと。
この『ママー探偵物語』には誰も見たことのない手塚治虫が詰まっています。しかも手塚先生のサービス精神がこの頃から随所に溢れていることを感じますね。デザイナーの祖父江さんがまたそれに応えて完璧な「本」に仕上げてくれました。まさかが本当になって感慨深いです。
888ブックス・吉田宏子さんが語る、『ママー探偵物語』のココを見て!
この本は正直、私どものような小さい出版社だからこそできたのではないかと思います。大きな出版社ではコストの関係で作れなかったと思いますね。原画の経年劣化が激しく取り扱いを含め印刷所ではなかなか対応できないと言われ、祖父江さんの会社でスキャンして修正が施されています。その分時間がかかかり、刊行スケジュールが大幅に遅れることとなってしまったのですが、出来上がりには自信があります。
企画が通ってから、弟の浩さんや当時の漫画キャラクターを描いた方のご遺族などに書籍化の許諾をお願いしたのですが、皆さん好意的でスムーズにご承諾いただけました。
当初はノートの復刻なので、モノクロ印刷でペーパーバックのようなものをイメージして、安価なものを作る予定でいたのですが、内容を確認するうちこの本は単純な復刻ではなく、資料的な価値が高いと祖父江さんを含む4人で一致しまして、劣化しない紙や当時の質感を生かしたインクなどを積極的に取り入れました。
手塚先生は漫画家として大成されましたが、この本を見ると編集者になっても超一流になっていたのではないかと思います。表紙、目次、奥付などもご自身で作られて、検印などもあってこだわりが窺えます。
手塚先生と交流のあったイラストレーターの和田誠さんが小学校時代に作ったノートを見せていただいたことがあるのですが、和田さんの本もやはり表紙や目次、奥付がありました。お二人とも「本として読ませたい」という共通のこだわりがあったのかなと思いました。
私は出版側として今回この本で苦労したことは実はあまりありません。祖父江さんのイメージや要望に応えるだけでしたから。
888ブックスのサイトで買うと、もれなく緻密に作られた複製原画と、田中さん・祖父江さんセレクトのポストカードが付いてきます。この特典はココでしか付きませんので、ぜひ888ブックスのサイトでお買い求めいただければと思います。
企画・編集を担当した濱田髙志さんが語る、『ママー探偵物語』のココに苦労した!
僕は今までいろいろな手塚作品を復刻させていただきました。そんな中でも『ママー探偵物語』は特別です。なんと言っても復刻ではなく、世の中に初めて出す手塚作品ですから。
復刻については賛否両論あるんですが、僕自身が手塚ファンということで、ファンの観点から「読みたいもの」「価値があるもの」はできる限り本の形で残していきたいという気持ちがあります。手塚プロダクションの出版局局長だった故・古徳(稔)さんも「手塚治虫は特別な存在なんだから、残したものにはすべて文化的価値がある。作品にまつわるものは後進のためにも残すべきだ」とおしゃっていて、ご子息の眞さんからも「発表を前提としていない作品が世に出ることには複雑な思いがあるが、漫画研究の素材として残すという意義はわかる」と言っていただき、それを受けて復刻企画に取り組んでいます。
ただ、『ママー探偵物語』については、弟さんや妹さんが描かれている共作部分もありますから、ファンとしての欲求よりも、まずはご遺族の意向を優先し、許諾どりは慎重に行いました。ところが、手塚先生の弟・浩さんがことのほか喜んで下さいまして。また、当時のことをあれこれ思い出していただいてお話しいただき、それらもできるだけ本に収録しました。
本来ならこの本はママー生誕80年として去年(2021年)刊行する予定でした。しかし、昨今のコロナや資材調達などさまざまな事情で遅れてしまいました。手塚先生を師と仰いだ藤子不二雄Ⓐ先生にも読んでいただきたかったですが、こちらも間に合わず残念な思いです。
僕がいちばん苦労したのは、ママー語の判読ですね。当時のことですから、全部カタカナなんです。モノによっては水で滲んだりしたところから読み解いていくわけですが、どこまでがセリフなのかママー語なのか……。けれども手塚先生の中では法則性があって、今回この本にはママー語の判読方法なども載せています。
また、手塚ファンの祖父江さんならではの修正ポイントもあるのですが、それはぜひ手に取って確かめてほしいですね。(談)
ファンだけでなく、デザイナーや編集者などのクリエイターから研究者まで、あらゆる専門家に読んで欲しい『ママー探偵物語』
田中さんから見せていただいた現物は、保存状態はいいものの、ところどころに焼けや劣化があるノートでした。特に綴じ部分は触ったらポロッと外れそうな感じです。ずっと大事に保管されていた年月の重みが感じられるものでした。
今回の復刻作業に相当な困難を要したことは想像にかたくないですが、祖父江さんを始めとする関係者の皆さんのご尽力で、80余年の時を経てこのたび見事に新しく素敵な書籍に甦りました。シュリンクされた函をカッターで開け、本を抜き出すと、函の内側にも祖父江さんこだわりのひと工夫があります。こちらは見てのお楽しみ、ぜひ手に取って、装幀の遊び心も味わってみてください。
今回取材させていただいた私から見ても、定規の線も拙い10歳の頃から、ページを追うごとにだんだん罫線がしっかり書かれるようになっていって、コマ割りが変化し、スターシステムに出てくるキャラの初期の姿が見られるようになっていき、この本で手塚治虫先生の成長期を疑似体験している気分になります。
また、手塚先生が当時チョイスした、昭和初期の鮮やかな包装紙を使った表紙のデザインのセンスがすばらしい。この色合いをぜひ見ていただきたいです。
手塚先生の昆虫スケッチは有名ですが、この『ママー探偵物語』に付録という設定で描かれているお菓子にも目を引かれました。本文中のカタカナ表記の吹き出し、当時流行った世相のパロディなどで昭和の戦前文化も垣間見ることができます。読めば読むほどいろいろな方向からスルメのように楽しめる本です。
「制作原価率が通常の書籍と比べるとかなり高く、ギリギリの値付けにしましたが、24,200円という高価格になってしまいました」と888ブックス・吉田さんは言いますが、この本は24,200円以上に「スゴい」を体感できます。高くて買えない……と思われる方も図書館で見かけたらぜひ手に取って体験してみてください。「これは買わないと!」ときっと感じるはず。未来の漫画家・編集者・デザイナー・製本業界・文化学・社会学・児童学……研究者必見の資料です。
なお、この希少本は初版800部のみの販売で、重版をかけられないギリギリのところで作られているそうです。皆さんなくならないうちにまずページをめくって、手塚先生の少年期のわくわくが詰まったこの世界に触れてみてください。
この取材を終えて新座スタジオを出ると、大きく鮮やかな虹がかかっていました。これはまさしく手塚先生からのメッセージ……。ああ、手塚先生も『ママー探偵物語』の刊行を喜ばれているんだなと、その場にいた一同全員で確信しました。
【関連書籍情報】
『ママー探偵物語』
本書は『ママー探偵物語』を中心に、手塚治虫が10歳から16歳にかけて描いた漫画の秘蔵作品集。これまでムックや展覧会でその一部が発表・展示されることはあったものの、全貌は不明のままだった、謎の生物「ママー」が登場する、現存する中短編の物語をまとめたもの。
デビュー作「マアチャンの日記帳」以来、手塚治虫は生涯を通じて数多くの作品を発表したが、創作自体はそれ以前の幼少時にまで遡る。
当初は模写や紙芝居のスタイルで描かれていたものの、小学生の頃には、早くもオリジナルキャラクターを生み出した。とりわけ有名なのが、物語の展開を無視してコマに割り込んでくる正体不明の不思議な生物の数々で、その筆頭がヒョウタンツギ、次いで印象に残るのが、謎の生物「ママー」。
1941年、手塚少年が13歳の時から数年に亘り描いた『ママー探偵物語』(現存2作品)で、堂々主役を演じたママーは、その後のヒゲオヤジを彷彿させる名探偵ぶりを発揮している。
ブックデザインは、同社の「手塚治虫アーリーワークス」「手塚治虫コミックストリップス」を手がけた祖父江慎さん。鉛筆の質感を残しつつ、古い紙の汚れは極力目立たなくし、読みやすさも追求した印刷。
なお、888ブックス公式サイトから購入した方には、特典として本書未収録カットの「複製原画」と「ポストカード」をプレゼント中。
【本書収録作品】
◉ニコニコ漫画大祭
ピーピーピーコ/ママーの冒險/お化け寺/セミとトンボの大合戦
ママーノタイサウ/チドリのチーチャン
特別大ふろく:新おくわし・てんらんくわい
◉漫画(短篇集)5 漫画と考へ物
ママーのサンポ/ピヨコノピーチャン③/ツルトスゞメノマキ
おもちゃの國/セミノサイゴ
考ヘ物ページ①〜③
ピヨコノ大バウケン①/ピヨコノ大バウケン②
面白エデホン
カメカメブユウデン
◉ママーたむていものがたり2
ママーの宝さがし
◉フロク 昆虫の身の上ばなし
◉ママー探偵4
ママー探偵モノガタリ4
ママーたむていモノガタリ 第四話ふろく スパイの女王
ママーノオンピッタ
ママーたむていものがたり(断片)
◉おやじマンガ4
ヒゲオヤヂ南方戦線記
◉昆虫手帳
著者:手塚治虫
企画・編集・解題:濱田髙志
解説:黒沢哲哉
ブックデザイン:祖父江慎(cozfish) 、小野朋香(cozfish)
印刷:三永印刷
発行:888ブックス(ハチミツブックス)
定価:本体22,000円+税
サイズ:菊判変形(天地226 ㎜ × 左右146 ㎜)
ページ:カラー722ページ
装丁:上製本、貼箱入り
お問い合わせ:888ブックス
※本記事に使用されている手塚治虫氏の正式な「塚」の文字は、一部のオペレーティングシステムやブラウザなどの環境では表示が異なります。
image by: ©️手塚プロダクション