夢を叶えたいと願い、それに向かって進む人は多くいれど、叶えられる人はほんの一握りとも言います。今回のメルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』では、著者でジャーナリストの上杉さんが、ご自身の夢を叶えた瞬間とその出発点について語っています。
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「編集主幹」就任で新潟へ~ジャーナリズム最後の旅
久しぶりに記者会見に臨んだ。新潟県庁の記者クラブで、「にいがた経済新聞」の石塚健社長とともに、編集主幹の就任会見を行なった。
何を隠そう、新聞社の編集主幹への就任は、若き日の夢のひとつだった。組織ジャーナリズムの頂点、とりわけ新聞の編集トップは、自由な言論を守る砦の役割を果たす重責だと考えていた。
米ウォーターゲート事件における『ワシントン・ポスト』紙の劇的なスクープでは、ウッドワードやバーンスタインら二人の若き現場の記者に注目が集まった。彼らはスターだった。ジャーナリズム界における圧倒的ヒーローだった。しかし、当時の私は、彼らではなく、老練な編集主幹のブラッドリーの存在に惹かれたものだった。
社主のグラハム女史とのやり取り、政府との対決シーン、編集部をまとめる圧倒的な手腕(現代では独裁と言われるだろう)などにおいて、あのドキュメンタリーの主役はブラッドリーに他ならない。彼のパーソナリティと存在があったからこそ、時代を超えたドラマになったのだろう(当ストーリーは実話だ)。
編集主幹、その役職が自分のもとにやってきたのだ。ジャーナリズムの現場から離れて10年、新潟という自らの取材の原点からの再スタートは感慨深いものがある。
当時、人気を得始めていた田中真紀子氏を取材するため、文藝春秋の取材で新潟にやってきたのが22年前の4月のことだった。
北国の春が私を楽観的にさせたのかもしれない。最初の一文字が世に出るまで、まさかその後8か月間も歩き回ることになる困難な取材になるとはまだ予想だにしていなかった。
最初の2か月は、文字通りの門前払いが続いた。真紀子氏の話を聞こうとするのだが、その取材意図を告げると、誰もが静かに扉を閉ざしたものだった。
長岡の夜は孤独になる。駅前の「田舎家」(確かそんな名前の店だった)でひとり食事を済ませて、オークラホテル長岡の部屋に戻ると、メッセージランプが付いている。取材先からの連絡かと期待してボイスメッセージのボタンを押すと、「取材を辞めてすぐに新潟から出ていけ!」と警告する声があったものだった。
それでも、越後交通の幹部や地方議員の事務所、あるいは偉大な父であった田中角栄元首相の元秘書の家を一軒一軒訪れ、なにか知っていることはないかと尋ね歩いた。しかし、なかなかきっかけはつかめず、取材は冒頭から大きな壁にぶつかっていた。そんな時、すがるように日本最大級の地方紙『新潟日報』の報道部に電話を入れた。
「君のことをよく知っている。本も読んだよ。いいだろう。すぐに会おう」
長岡から新潟市内に移動し、当時黒崎にあった新潟日報社を訪ねた。気が抜けるほど簡単に報道部長への面会が叶う。彼こそが、田中角栄取材や横田めぐみさんの拉致取材で名を馳せた地方紙のスター記者の小田敏三氏(現・新潟日報代表取締役会長)だった。
「君は都立広尾高校の出身だろ?。俺もなんだ。本の扉に出身高校名を書くやつなんて珍しいから目についたよ。奇遇だな。都立高校の後輩とこうして新潟の地で会うことになるなんて」(つづく)
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