家康が天下に名だたる大大名となったとき、家康のもとには全国のお殿様から、最高の美女たちが献上されてきました。戦国のならいです。そうすることで一族の娘が家康の子を産めば、徳川家と親戚になることができ、一族の安全が保障されるからです。
けれど家康は、それら美女には一切目もくれませんでした。そうは言っても子をなさなければ徳川の家が滅んでしまいます。ですから側室は置きました。けれどその側室としてお手つきになるのは、決まって家康の地元の農家の、あまり器量よしとはいえない女性たちでした。
「殿はなぜ、殿様たちから送られてくる美女にお手をおつけにならないのですか?」と聴いた人がいます。
家康の答えです。「そのようなことをすれば、死んだ瀬名が悲しむ」
家康の生涯で正妻は瀬名姫一人だけです。瀬名が死んだあとの家康は、生涯正妻を持とうとしませんでした。
晩年の家康の言葉です。
「あのとき築山殿を、女なのだから尼にして逃してやればよかった。命まで奪うことはなかった」
家康の晩年の住処は、駿府です。そこは瀬名姫が生まれ育った土地でした。
戦後、家康を描く小説や映画、歴史書などは数多く存在します。大河ドラマにもなっています。けれどその多くが家康を、
- ひたすら権力を夢見たヒヒ爺いであった
- たまたま周囲(たとえば秀頼など)が能無しだった
- 運が強かった
といった切り口でしか語っていないのは、たいへん残念なことに思います。
もちろんそれぞれは、その人の見方ですから、否定はしませんが、「ヒヒ爺い」なら、当時の大名は、みんな独立した存在です。それに家臣を抱えているのです。そんな耄碌爺いに付いていくようなお人好しの大名などまずいません。
「周囲(たとえば豊臣秀頼など)が能無しだったから天下を取れた」という論も、おかしな論です。世の中に完璧な人などいません。だからこそ組織があり、優秀な官僚が殿様を支えるのです。「運が強かった」は、もちろんそうでしょうけれど、ではどうして運が良かったのかが説明されていません。
どのような家中にあっても、大将に慈しみの心があり、部下思いで、人を大切にしてくれ、自分たちの生活をきちんと支えるためにあらゆる努力を払ってくれている大将のところへは、優秀な人材が集まります。そしてそれ以上に、「殿のためなら、俺は命もいらねえ」といった感情も生まれてくるものです。つまり、そう思わせるだけの人間としての魅力が、家康にあった、ということです。
そしてその魅力の根源は、瀬名姫のことや、向かえてくれた家臣たちの涙を、ずっとずっと大切にし、それを自分への重石にしていることを、家康の周囲の誰もが知っていた、ということではないかと思います。
日本をかっこよく!!
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