追悼の辞から考える日本政治家のリーダー像
国葬では、官房長官として安倍前首相を支えた菅義偉前首相が、友人代表として追悼の辞を読んだ。その中のいくつかのエピソードが多くの人を感動させたという。国葬の中で一番評価された人は前首相の菅義偉だと言っても過言ではない。
国葬に賛成するか反対するかは別として、追悼の辞から見る政治家の友情はクラスメイトレベルのようなものだと感じた。第一次安倍政権の際、「お友達内閣」が出来上がったことを克明に覚えている。親しい人、価値観が一致する人だけ付き合うことは一般人には個人自由だが、政治家なら確かに物足りないと言わざるを得ない。
青木理氏の著書の『安倍三代』の中、一代目と二代目は庶民目線の政治家で、戦時中に反戦を唱えた祖父・寛、その志を継ぎ、リベラル保守の政治家として外相も務めた父・晋太郎。そして、三代目としての安倍元首相は「悲しいまでに凡庸」な人物だと描き出した。
世襲制の功罪・日本政治家のリーダー像について考えさせられた本だと実感した。どんなに人柄がよい人間とはいえ、一国のリーダーとして「いい人」だけでは確かに足りない。
追悼の辞から見る安倍前首相と菅義偉前首相の友情と価値観が確かにピッタリなものだと信じる。ある程度、長期政権の内部構造がはっきり見えてきた。友人同士・価値観一致同士が支えあってきたのだろう。
ただし、政治にも多様性と包容力が必要ではないか。日本の外交においても、価値観を共有する国との親密さも重視しているようだ。価値観の異なる国同士も対等に付き合う必要があり、価値観だけで判断せず、知恵を絞って国同士を和解させる必要がある。なぜなら、現代では人と人との交流が国境を越えて行われるようになっているからだ。例えば、中日両国の政治的関係は、民間の交流に比べればかなり遅れている。
日本の政治家は世襲制でプロフェッショナルすぎて、誰が首相になってもほとんど変わらず、官僚体制はいつも通常通り運転し、現職の首相はどんな時でも原稿を棒読みするだけの象徴のような印象を海外に与えているらしい。経済が停滞している今日、日本には、異なる価値観を持つ人々を見下したり拒絶したりせず、理解し包容していき、リーダーシップと寛容さを持った政治家予備人材が必要だ。
しかし、理解しがたいのは、なぜ優秀な人材が政治家になりたがらないのか、ということだ。 日本中の政治家を見ても、次の総理大臣にふさわしい人はいないようだ。それにしても、社会分断を融和し、日本の未来を切り開く人が必ずいると信じたい。日本がもっとよくなってほしいと祈念するばかりだ。
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