中国「反ゼロコロナ」デモが「天安門事件の再現」にはならないワケ

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終わりの見えないゼロコロナ政策に中国の市民がついに声をあげ、若者たちを中心に各地で白紙を掲げるデモを敢行。そこに江沢民氏の死去が重なり、日本のメディアからは「天安門事件の再現」を危惧する声もあがりました。今回のメルマガ『富坂聰の「目からうろこの中国解説」』では、多くの中国関連書を執筆している拓殖大学教授の富坂聰さんが、すぐに「天安門事件」を引き合いに出すメディアに半ば呆れ、1989年当時との情勢の違いを解説。江沢民氏については「反日教育」を推進した人物として批判してきたメディアの中にも持ち上げる言説が溢れたことに驚き、その意図を推察しています。

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江沢民の死去と反「ゼロコロナ」デモが簡単には天安門事件と結びつかない理由

今週は多くのメディアが反「ゼロコロナ」デモを大きく報じた。抗議デモは映像を見る限り若者が中心で、かつA4サイズの白紙を手に持つ、概して静かなスタイルが斬新だったこともあり、世界のメディアが敏感に反応した。

メディアのなかには、抗議活動が全国50都市までに広がったと報じたところもあった。また、上海のデモ隊のなかには「習近平辞めろ」、「共産党退陣」と叫ぶ者もあり、日本では早速、「天安門事件の再現か」と騒めく声が広がった。だが、本当にそうだろうか。

1989年に起きた第二次天安門事件(=以下、天安門事件)は、大多数の国民が敬愛する胡耀邦元総書記が無念の死を遂げたことがベースにあった。胡耀邦がなぜ「無念の死」であったかといえば、それは1986年末の学生デモに厳しく対処しなかったことを咎められ、道半ばで失脚したからだ。

このデモは胡耀邦を応援するために学生が仕掛けたデモであったが結果として胡耀邦を追い詰めてしまった。学生たちの心には、それが澱のように溜まっていて、どこかで挽回したいという強い思いもあったのだ。

86年のデモは、私自身も北京大学の学生であり通信社でアルバイトもしていたので感覚は共有できる。当時の学生は党中央のなかで路線・方針をめぐる対立があることをよく知っていたし、後にノーベル平和賞を受賞する劉暁波のような言論人が、大学を訪れては中国が民主化する「バラ色の未来」を熱く語り、学生たちから熱狂的に支持されていた。低迷する社会主義に対し、西側社会は経済でも政治制度でも圧倒的な輝きを放っていた時代であった。

習近平指導部が進める「動的ゼロコロナ政策=ゼロコロナ」に対する不満が大きな伝播力と共感力を備えていることは間違いない。しかし、それが政治的な広がりへと昇華するためには、いろんな条件が欠けていると言わざるを得ない。天安門事件が起きたころ、中国にとってアメリカや日本は憧れの国で、かつフレンドリーな印象を人々に与えていた。

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