スマートフォンで即座にコミュニケーションが取れる時代から見ると、それは不便かもしれないが、想像の中でお互いの関係性が片務的に形成されていくのは、その不便さゆえに幸せだったような気もする。
他人が言葉や手紙以外で気持ちを通じ合うことは艱難な時代だからこそ育んできたコミュニケーション文化は、幸せを希求するところから始まっている部分もある。
作品の文面はその形成過程とも受け止められて面白い。
相手の気持ちを一瞬のしぐさから想像し、悲嘆にくれたり、喜んだりする人間の感情は、幸せや不幸せをもたらすものだが、お互いが相通じる瞬間を求めて、人は出会い、別れて、そして出会いを繰り返すのかもしれない。
岡田の辿った道を歩きながら、休日の静かな東大の中で甥っ子と語り合う。
或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖(とざ)されるので、患者の出入する長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので、今春木町(はるきちょう)から衝き当る処にある、あの新しい黒い門が出来たのである。
赤門を出てから本郷通りを歩いて、粟餅(あわもち)の曲擣(きょくづき)をしている店の前を通って、神田明神の境内に這入る。そのころまで目新しかった目金橋(めがねばし)へ降りて、柳原(やなぎはら)の片側町(かたかわまち)を少し歩く。
それからお成道(なりみち)へ戻って、狭い西側の横町のどれかを穿(うが)って、矢張(やはり)臭橘寺の前に出る。これが一つの道筋である。これより外の道筋はめったに歩かない。
東大から赤門のある本郷通り出れば、今やビルが乱立する大都会だが、鴎外が記した場所をたどれば、いつの間にか気分は明治になる。
学問の徒となってイメージを膨らますと、鴈の舞台に舞い降りた「明治の私」になっていく。
齢を重ねるこのタイミングに、やはりこの散歩は面白い。
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