徳川幕府の本拠地であった江戸城。見学ツアーが今や人気となっていますが、今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんいわく、実は江戸時代も中まで見学できたのだとか。しかも、あの「大奥」も見学できたとして、その時代に思いを馳せながら詳しく解説しています。
江戸城は江戸時代に「日本のハーレム」大奥も見学できた?
NHK大河ドラマ、「どうする家康」が佳境に入っています。
関東移封が描かれ、家康が入城した当時の江戸城の様子も描かれていました。江戸城は八王子城の支城で、小田原北条氏に属する遠山氏が城主でした。曲輪内の建物は板葺きか藁葺きの粗末な構造で、しかも雨漏りがしたと伝わっています。
城がこんな有様ですから、城下たるや町とは呼べるものではなく増上寺や浅草寺の門前にぽつりぽつりと民家が建っているだけの寒村でした。
というのも、地形が城下町を形成するには不向きであったからです。現在の日比谷にまで入り江が入り込み、周辺は湿地帯か荒れ野でした。従って家康は城と共に城下町作りから始めなければなりませんでした。東京の原型となった江戸の町作りは三代将軍家光の頃にできあがります。
ところが、明治政府は徳川幕府を否定する立場にありましたから、幕府や家康の功績を貶めます。その風潮は太平洋戦争後もしばらく残りました。それを象徴する名作映画の一場面があります。
小津安二郎監督の、「東京物語」です。
この作品が公開されたのは昭和二十八年(1953)、終戦後八年です。映画の中で原節子が笠智衆と東山千栄子の舅夫婦をはとバスで東京見物に案内します。皇居が見えたところでバスガイドさんが説明しました。「皇居はかつて千代田城と呼ばれ、今からおよそ五百年前、太田道灌によって築城されました」確かに太田道灌は江戸城を普請しましたが、先に記しましたように皇居となった徳川幕府の江戸城とは別物です。
映画が公開された頃は未だ徳川家康を低く評価する世相だったのかと窺わせますね。
今日、江戸城見学ツアーが人気を呼んでいます。史跡巡りとしての江戸城見学なのですが、意外にも江戸時代、つまり徳川幕府の本拠地として機能していた頃にも江戸城の見学は行われていたのです。ちなみに、拠城を庶民に開放して見学を許したのは織田信長の安土城が初めてとされています。
江戸城の場合、幕末になってからですがお金を払って通行手形を受け取れば、案内役に従って城内を見学できました。老中たちが苦しい財政の足しにしようとしたのかどうかはわかりませんが、お金を払えば将軍様の居城に庶民でも入ることができたのです。しかも見学できたのは政治が行われている表向きの施設ばかりではありません。日本のハーレムである大奥の見学もできたそうです。
一般に大奥といえば、将軍以外の男は立ち入ることのできない女の世界、飼い猫も雌しかいないと言われていました。実際はどうだったかというと、老中などはよく訪れていましたし、大奥の事務を司った広敷役人も出入りしていました。そうは言っても、金を払えば庶民までもが大奥を見学できたとは、幕府の衰微を思わせますね。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』2023年10月11日号より一部抜粋)
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