信者たちの“心の源泉”だったカリスマ「池田大作」の死で創価学会と公明党の弱体化は加速する

 

揺らぐことがなかった池田名誉会長の独裁体制

創価学会の総則に、こんな条文がある。2002年に会則を改正してつくったものだ。

第3条 初代会長牧口常三郎先生、第二代会長戸田城聖先生、第三代会長池田大作先生の「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である。

故人である初代、二代のみならず、池田氏までを「永遠の師匠」として神格化したものといえる。池田氏が、生きている自分に全ての権力が集中するよう仕組んだとみることもできよう。

池田氏は1960年、第3代会長に就任し、1979年に名誉会長となった。その後、創価学会会長は第4代北条浩氏、第5代秋谷栄之助氏、そして現会長の原田稔氏とバトンタッチされてきたが、池田氏の独裁体制に揺るぎはなかった。

元公明党参院議員、福本潤一氏によると、いずれの会長も就任のさいに「池田名誉会長には違背しません。創価学会の財産はすべて名誉会長のものです」という誓約書にサインさせられている。いわば、池田名誉会長は院政を敷いてきたようなものだという。

そこから浮かび上がるのは、池田氏が「世襲」をもくろんでいたのではないかということだ。初代の牧口常三郎会長、第二代の戸田城聖会長ともに「世襲をしたらその宗派は衰える」との考えを持っていた。池田氏もそれを受け継ぎ「創価学会は永遠に世襲制をとりません」と宣言していた。にもかかわらず、学会内部には「世襲でなければ創価学会はもたない」という声が絶えないらしい。

池田大作氏には3人の息子がいる。当初、池田氏が跡継ぎにしたいと思っていたのは学者タイプの長男、博正氏ではなく、次男、城久氏だったが、城久氏は1984年、29歳の若さで急死した。3男の尊弘氏は学会の副会長をつとめたこともあったが、現在は創価学園主事という肩書である。

つまり、城久氏が亡くなったあと、博正氏が有力な後継者候補とみなされてきたということだ。学会本部では「ご子息さま」と呼ばれることもあったらしい。ただ、博正氏には父、大作氏のようなオーラがない。

いま我々はネット上で、池田大作氏の過去の映像をみることができる。講演や集会でのスピーチ、学会員との交流風景。なんと人当たりのよい人物であろうか。教祖然とした風格を漂わせながらも、やさしく、わかりやすく、明瞭な言葉で語りかける。ひと言も聞き逃すまいと耳を傾ける会員たちの目には涙が浮かぶ…。

このカリスマ性には“人たらし”の天分もあろう。しかし、卓越した“心理学者”であり“演技者”でもあると筆者は感じる。1960年、池田氏が若くして第3代会長の座に就いた当時、学会本部にはまだ、牧口・戸田を信奉する古参幹部が健在だったが、巧みな言動でしだいに人心を掌握し、組織をまとめてゆく。

池田氏が独裁者ぶりを強烈に発揮していくのは、1977年に始まる第1次宗門戦争の責任をとって会長を勇退し、1979年、新たに創設した名誉会長の座に就いてからだ。

もとはといえば、創価学会は日蓮正宗大石寺の信徒団体である。その会長だった池田氏が「小説『人間革命』こそが日蓮大聖人の御書に匹敵する」などと発言したことで、大石寺が激怒し、第1次宗門戦争と呼ばれる騒動が起こった。

池田氏の会長勇退でいったん収まった宗門戦争が再燃したのは1990年の暮れだった。池田氏が幹部会のスピーチで、日蓮正宗や阿部日顕法主を批判したのが発端だ。1991年に入ると学会は聖教新聞などを使って反宗門キャンペーンを繰り広げた。学会が日蓮正宗から破門されたのは、このような経緯があったからだ。

この記事の著者・新恭さんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • 信者たちの“心の源泉”だったカリスマ「池田大作」の死で創価学会と公明党の弱体化は加速する
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け