京都の桜を育てて100年、「桜守」佐野藤右衛門が勧める桜の名所

 

桜の枝を10本くわえ270キロ運転

遺伝子を伝えるために「兼六園菊桜」の接ぎ穂(芽がついている枝)を30~45cm程切り台木となる桜に接ぎ木をする必要がありました。「兼六園菊桜」と対面した14代藤右衛門は石川県土木課にかけあったそうです。何度も金沢を訪れ、昭和6年に「接ぎ穂を入手する許可を得ました。しかしこの接ぎ穂で育てていた貴重な桜は太平洋戦争以降の戦乱で行方不明になってしまいます。

戦後、先代である父の想いを継いで15代藤右衛門は昭和34年から毎年「接ぎ穂」を譲り受けに兼六園に通います。しかし何度となく接ぎ穂は失敗してしまいます。昭和36年に15代藤右衛門に同行した16代(当代)藤右衛門も初めて金沢へ同行します。その時石川県の土木課から菊桜がかなり弱ってきているから接ぎ穂のためとはいえもう切らないでくれと言われたそうです。

何度も老衰だと思って諦めようとしましたが、何とかもう一度だけと頼み込んで接ぎ穂をもらい京都まで持ち帰ったと言います。それまでも先代が運搬方法を色々工夫したけどダメでした。水を含ませた新聞紙に包んでみたりあらゆる方法を試していたそうです。先代は夜が明けて夜露がまだ朝日に照らされて光っている時に接ぎ穂を切りそれを口にくわえました。これでだめだったらという覚悟で口に10本の接ぎ穂をくわえたまま、金沢から京都まで270キロの道のりを運転して帰ったといいます。唾液には養分が含まれているからか、体温の温かさが良かったのか、奇跡的に10本のうち1本だけ生き残ったのです。これでダメだったら天下の名園・兼六園の菊桜はこの世から存在しなくなると必死だったそうです。

夜、雨の音がすれば飛び起きて傘をかけてやったり、虫がつかないように手当てをしたり、長い間大変に苦労して育てようです。接ぎ穂は桜守3代に渡り約40年の時を経て成功しました。そして昭和42年、初代「兼六園菊桜」が枯死した後、京都嵯峨野の植藤造園で大切に育てられた2代目が兼六園に返されました。それが現在兼六園にある菊桜なのです。

京都には昔から桜をこよなく愛し丁寧に育てる桜守という庭師がいます。京都の桜はこのような人たちの途方もない長年の努力によって格別の美しさを見せるのです。

祇園しだれ桜と16代佐野藤右衛門

円山公園にある祇園しだれ桜は2代目で、先代は名桜で明治・大正・昭和と「祇園の夜桜」として知らない人はいませんでした。先代はその初代のしだれ桜から種をもらってきて嵯峨野の佐野藤右衛門邸に撒いたそうです。100ほど発芽し戦後残ったのが4本。それを当代が生まれた日を記念して植えたのが今の2代目の祇園しだれ桜です。昭和22年に先代のしだれ桜が枯れてしまい同じ場所に寄付しました。誰もが知る円山公園の中央に堂々と咲き誇る祇園しだれ桜は当代の佐野藤右衛門と双子の兄弟で今年御年88歳です。

桜守おススメの京都の桜

桜守・佐野藤右衛門さんおススメの京都の桜はやはり兄弟の円山公園のしだれ桜のようです。昭和25年のジェーン台風の時に暴風雨の中、先代が木に登り幹にしがみついて必死で守りその翌年初めて花を咲かせたといいます。まさに先代の桜守としての魂が入った桜です。そんなことに想いを馳せながら眺めると自分だけの極上の花見が出来ることでしょう。

京都にはこのように知っていれば無限に感動が広がる場所です。花見1つとっても語りつくせない数々のロマンがあります。一度で全てはお伝えすることが出来ませんので、その奥深い魅力を今後も末永くご案内出来ればと思っています。

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