一口に「アート」と言っても多種多様なものが並ぶ現代、アートというものに対する概念は人によっても異なります。変わりゆく美術作品/アートがあふれる中で、私たちはどのようなものを見てどう振る舞うべきなのでしょうか?そんな疑問に応えるべく、5月開催の「アートフェア東京2016」のエグゼクティブプロデューサーである來住尚彦さんが、「東京美術倶楽部」元副会長の吉田誠之助さんに、戦前から現在までの古美術の歴史や同倶楽部の過去の取り組みなどについてお聞きしました。
木造家屋・畳からのスタート。とてもアートフェアとは呼べない
インタビュアー・來住尚彦(一般社団法人 アート東京 理事長。以下、來住):いま私は「アートフェア東京」のエグゼクティブプロデューサーをしています。アートフェア東京は5月に開催し、10月に東美特別展が開催されます。東美特別展は3年に一度開催され、間の2年間は東美アートフェアが催されます。
格は当然、東美特別展の方が上です。しかし、その前に「この二つの展示会の役割の違い」を考え、東美特別展にも、東美アートフェアにも、そしてアートフェア東京にも足を運んでいただけるように、東美特別展の歴史から伺いたいと思います。
吉田誠之助(東京美術倶楽部 元副会長。以下、吉田):東美特別展はそもそも昭和39年、東京オリンピックでブランデージ氏(アベリー・ブランデージ、国際オリンピック委員会第5代会長。アジア美術の蒐集家としても名を馳せた)が来るということで、氏を始め、海外から多くの人が来日するこの機会に日本美術の精華を広く紹介したいと、「オリンピック記念古美術展観特別即売会」を開催したことが始まりでした。
当時の東京美術倶楽部は木造3階建ての純日本家屋で、とても「アメリカのアートフェア」のような雰囲気はありませんでした。ほとんど畳敷きでしたし。
それでも大変好評だったため昭和41年に第2回が開催されました。その際に名称を「東京美術倶楽部特別展観即売会」略して「東美特別展」と改め、今回で20回目を迎えることとなります。
当初40〜45だった出展ブースも、今の建物(東京美術倶楽部ビル・平成3年竣工)が完成してからは凝った造作もできるようになり、また出展者数も増えました。
來住:今は65になってますね。
百貨店を参考に拡大
吉田:東美特別展はいわゆる「ブランド」を目指しています。分かりやすく言うと銀座や表参道にあるような高級ブティックブランドです。そして私たちが行っているその他の催事はリーズナブルなファストファッションという位置付けです。そういう棲み分けで行こうというのが趣旨でした。
しかし、当初のニーズはブランドメインだったのですが、最近は少しファストファッションとの距離が縮まってきているように感じます。
來住:最初、もっと離そうと思ったんですか?
吉田:離れていました。断然離れていました。
そういうターゲットでスタートしましたから。
ただ、お客様のニーズの変化や、内部からの新規出展を要望する声が多数あったこともあり、新社屋を作ったばかりだった頃、どういう風に見せたらいいか、視察でニューヨークに行ってきました。
そこで、「あ、なるほど!」と。老舗もいいけど、手が届きやすいファストファッション系も入れていいかなと思ったんです。
そこからブースを半分の大きさにして、一気に出展数を倍にした「東美アートフェア」(平成11年~)に発展しました。
來住:ブランドとそうでないものの割合は、そのときは何対何で始めたんですか?
吉田:そこは全部自己責任です。出展側がどういうものを出すか決めます。
企画はこの組織が練っていますが、いわゆる店舗貸しの形態をとっています。もともと自分で仕入れて自分で売っていたデパート業界で、店舗貸しにした丸井さんのモデルを東美特別展で導入し、東美アートフェアでも踏襲しました。
來住:専門展開ですね、わかります。
吉田:自分の責任で展開するやり方。では、私たちもそれで行きましょうと。
來住:ということは、割合は出展者の方々のバランスで決まると。
吉田:そう。ただあまりに安いものばかりを並べるのはやめて欲しいと。
例えばお茶のお稽古道具というものがあります。ビギナー用のものだと3〜5万円くらいでしょうか。
でも、やっぱり東美特別展では300万円のお稽古道具を並べて欲しいんですよね。
その中には3万円の物も並べてもいいよという風潮になってきたんです。
來住:「中には3万円のも並べてもいいよ」というのは最初から告知してたんですか?
吉田:いえ、そこは出展者の売れ筋とかニーズを大切にしたので暗黙の裡にです。あくまでも自己責任ですし。ただ大体予想はつきます。会期中は毎日見ていますからね。
來住:東美特別展というブランディングがあるのに全然違うニーズから展開したように感じます。その場合東美特別展ブランドは上がるか下がるかどちらなんでしょうか?
吉田:大変上から目線で申し訳ないですが、美術商や美術品、お客様にランクがあるとしたら、東美特別展は全て最上級を目指しています。そこはぶれません。それでは敷居が高いように思われてしまうのも仕方ないですが、一方で、先述した東美アートフェアや、他にも「東美正札会」という庶民的なものも開催しています。
ターゲットは歴史とニーズで掴む
吉田:戦後、髙島屋と日本橋を繋いでいた地下道があって、そこでは戦後のガラクタを売っていました。それに目をつけた髙島屋が「我楽多市」を始めました。私は子供だったけど覚えています。地下道は遊び場でしたからね。
その東京美術倶楽部版が「東美正札会」(昭和27年~)で、いわゆる蚤の市や骨董市と言われるものです。「我楽多市」は値段が付いてなかったですが、うちでは正札(値札)を付けました。
整理をすると、現在私たちはニーズに合わせてそれぞれ、庶民的な東美正札会(昭和27年~)と最上級の東美特別展(昭和39年~)、その間を狙った東美アートフェア(平成11年~)の3つを展開しています。
來住:その「間」ってお客さんいるっていうイメージできていたんですか?
吉田:はい、なんとなくですが。
一般家庭でも部屋に飾り付けをしようとする風習が出てきたのではないかと。特に置物など。
來住:通常マーケットって、上と下があった場合、引きちぎって上にするか下にするかというマーケティングの手法をとるのに、あえて真ん中にしようというのは、今のご説明で半分わかったんですが、もう少し説明していただけませんか。
吉田:正確な人口分布はわからないですが、もともと富裕層はいると思います。そしていわゆる一億総中流の意識を持っている、そういう人も多くいるのではないかと。
ただ、昔から思えば今は総富裕層ですよね? だって極端な話、駅弁の蓋の裏の米粒を食べる人はいないでしょう。
來住:でもあれは食べないと神様にしかられちゃいますからね(笑)。
吉田:それは、単なる教えだったわけじゃなく、貧乏だったから。
つまり、あれを食べないと1日の量が間に合わなかったから。
來住:教えには必ず意味というか、実益がありますからね。話を戻しましょうか? 富裕層がいて、中流にいた人がさらに増えているとおっしゃいましたが、他の層はどうですか?
吉田:減ってきているんでしょうね。美術品買う人達は。
これからのアートの捉え方とは
來住:東美特別展の成り立ちはよく分かりました。吉田さんは10年後のイメージングはいかがでしょうか?
吉田:私の将来の自分の形というよりは、ニーズがかなり違ってきてるので、もう次の世代の感性でやらないと。
例えば「千利休の手紙」というものがあります。それは由々しきもので、きちんと床の間に掛けて、それなりの古い裂で仕立てて、というのが「千利休の手紙」の概念であり原点です。それが代々渡って、孫の代になったときに「軸装を額装に替えたいから、手紙の部分だけ切り取ってくれ」と言われても、それはできないでしょう?というのが私。
だから、そういうニーズがあると軸装のまま表具ごと額に収めてあげます。
和室がないからでしょうか? 今はそういう人が多いですね。外国人もそうですし。
何だかんだ言ってもニーズに対してやらないといけないこともあります。私はやることすら嫌だと言いますけど、それをやらなければならないのが次の世代かもしれません。
來住:そのニーズはあっても、正しい/正しくないというのを…
吉田:きちんと伝達しないといけないですよね。
とは言え、あんまり原点と言い過ぎると、取り残されてしまう気がします。それでもそういうニーズに対して、時間をかけて折衷案をなんとか保っていこうとしてるのが私たちの世代。
どうやってその移行期間を引き延ばそうかと。
そういう信念がいいという人もいれば、悪いという人もいる。
身近なところだと、私はガラケーしか使えないです。でも今ニーズはスマホに移ってしまっているし、便利さで言ったら明日にでも替えるべきだとは思います。
だからいずれガラケーはなくなってしまうのでしょうけど、そうなっても何とか引き延ばして使っていくつもりです。
そして、それは文化も同じだと思います。相当な何かがないと、保てないのではないか?と。
例えば、お茶というと正座が基本ですが、江戸時代以前は立膝でしたしね。今では足を入れるこたつ式もあります。
來住:ということは常に変わってるわけですね。
吉田:そう。それでもすごい勝手なことを言うと、自分が生きている間だけは自分の文化にしておきたいですよね。死んだら知らない(笑)。
(2016年4月、東京美術倶楽部にて)
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