朝鮮王朝に嫁いだ皇族。韓国障害児の母、李方子妃物語

 

旧朝鮮王妃としての責任

併合後も李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家などはわずか3万8,000円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150万坪を越す土地や4,000万円以上の預金を所有していた。

垠の父李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同等」という扱いはここにも及んでいた。

また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。

大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピストルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙して事なきを得た。

王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました。

方子妃は自伝にこう述べている。

王子晉の死

垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後王子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ一家は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。

その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。

2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日はこの地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんとはなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にとっても晉にとっても、この国、この地がふるさとであることを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょうか…。

しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた

日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように起きただけに、方子妃はじめ多くの人は毒殺に違いないと思った

幸福の日々

昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひとこと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいないときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかっていたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。

つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声きくぞ嬉しき

必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子にしっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばならないとの悲願を心の底に深く刻みつけた。

昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しばしの幸福の日々が続いた。

昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたって動ずることなく、王者の風格があった。幼年学校の同期生の 一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な日本軍人理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。

また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のための寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。

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