スバルに受け継がれる、東洋最大の飛行機会社を作った男の遺志

 

民間事業として飛行機開発を進める

知久平はさらに重い魚雷を運ぶために二つのエンジンを搭載した双発水上機を開発し、また魚雷落射機も設計したが、上層部に却下された。知久平がことある毎に、大艦巨砲主義を批判していたので、不愉快に思う高官も多かったようだ。

こうした事から、知久平は海軍を去って、民間の事業として飛行機製作を進めたいと考えるようになった。大正6(1917)年12月、知久平は30代なかばの若さで、予備役編入の願いを出し、海軍を去った。『退官の辞』と題した挨拶状には、こんな一節があった。

我が目標は一貫して国防の安成にありて、野に下るといえども官にあると真の意義において何等変わるところなし。吾人が国家のため最善の努力を振るい、諸兄の友情恩誼に応え得るの日はむしろ今日以降にあり。
(同上)

知久平は海軍で志を共にする数人の技術者と一緒に、郷里の群馬県太田の利根川の河川敷を借りて飛行場を作り、そこで飛行機の設計に取り組んだ。資金は自らの海軍の退職金と知久平の心意気に感じた富豪からの出資のみだった。

当初、飛行機研究所と名乗っていたが、大正7(1918)年には、会社名を中島飛行機製作所とした。知久平は、工場の2階の小さな部屋に寝起きし、酒も煙草もやらず、炊事婦の作る粗末な食事だけで、朝から晩まで設計に打ち込んだ。

こうして出来上がった試作機は冒頭に紹介したように、失敗続きで、地元の人々からも「あがらないぞえ中島飛行機と揶揄されたのだが、ついに大正8(1919)円2月、4号機が高度100メートルで飛行場の上を一周し見事に着陸を果たした。

この成功によって、知久平は陸軍航空部から一挙に20機の初注文を受けて、一息つくことができた。

世界最大の飛行機メーカー

大正9(1920)年は中島飛行機製作所にとって飛躍の年だった。三井物産との資本提携が成立し、資金面の心配はなくなった。「ようし、日本一の飛行機会社になったるぞ!」と胸を叩いたところに、陸軍から大正9年度分として、100機もの追加注文が入った。海軍も、水上機を30機買いたいと言ってきた。

大正10(1921)年、ワシントン軍縮条約が成立して、当分の間、建艦競争は中止となり、飛行機の方は制限されてなかったので、逆に集中的な開発が続けられた。中島飛行機は次々と名機の開発に成功し大量の飛行機を陸海軍に納め続けた

陸軍最初の国産戦闘機として採用された91式戦闘機は、その後、97式、「隼」などにつながっていく。97式はノモンハン事件の最初の6日間で、ソ連の最新鋭戦闘機175機を撃墜し、日本の飛行機の性能を世界に示した

海軍でも国産最初の90式艦上戦闘機を初めとして、65機種を開発した。大東亜戦争勃発と共に真珠湾の米大艦隊を壊滅させて、世界の航空常識を覆した「零戦」は、原設計は三菱であるが、エンジンは中島製であり、また生産された合計1万余機のうち、6,500機ほどは中島で作られたのである。

中島飛行機製作所は、戦時中の昭和19(1944)年には、中規模以上の工場だけでも100カ所を超え、人員数は約26万人という世界最大の飛行機メーカーとなっていた。

飛行機でお国のために尽くす、という知久平の志は、立派に実現されたと言える。

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