ユニクロが「安いけどダサい」から脱却できた“常識破りの戦略”

 

コーディネートではなく単品を売る

70年代に誕生したデザイナーズブランドの革新は、トータルアイテムをコーディネート展開したことだった。

当時の百貨店の売場はブラウス売場、セーター売場等のアイテム別の平場が主体であり、アパレル企業も特定のアイテムを専業としていた。東京ブラウスはブラウス単品であり、東京スタイルはドレス、コート主体だった。

生産する側から考えれば、機屋も縫製工場もアイテム別なのだから、アイテム別のアパレル、アイテム別の売場が合理的なのだ。しかし、アイテム別に展開するデメリットは、トータルコーディネートができないことだ。

欧米のデザイナーズブランドは、オートクチュールの伝統を引いた、トータル展開が基本だった。それに習い、トータルアイテムによるトータルコーディネートをショップで展開することが革新だったのである。

その流れは、SPA、ファストファッションへと引き継がれ、現在ではトータルアイテムによるトータルコーディネートが当たり前になっている。

しかし、ユニクロはあえて単品展開にこだわっている。逆に言うと、未だにトータルコーディネートはできていない。ショーウィンドーのティスプレーを見ても、コーディネートはチグハグだし、カラー展開も全体のコーディネート計画ができていないことを示している。

しかし、それには必然的な理由があるのだ。

中国生産で固める

中国生産が本格化したのは、80年代半ばだった。当時は、国内生産、韓国生産、台湾生産、中国生産が混在していた。90年代になって、中国製品の品質が安定するようになり、次第に比率を高めていった。それでも、中国生産できるアイテム国産でしかできないアイテムがあったのだ。

ユニクロ原宿店を見た時に、全ての製品が中国生産であったことに衝撃を受けた。国内生産と中国生産が混在していると、国内生産の工賃を基本に小売価格を決定することになる。それが当時のアパレル企業の常識だったのだ。

しかし、ユニクロは全ての製品を中国製品で固めた。逆に言えば、中国で生産できないアイテムやデザインは排除していたのだ。この思い切った商品政策により、ユニクロは中国生産のコストを小売価格に反映させることができた。

98年当時は、テーラードやデニムは展開していなかった。それらのアイテムは、どの縫製工場でも縫えるものではなかったのだ。その後、ユニクロの影響を受けて、中国生産の比率が圧倒的に高まるのだが、ユニクロほど徹底したブランドはなかった。その集中と選択は、非常に戦略的であり、効果的だったと思う。

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