「外国と通商することがなぜいけないのか」
龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。
今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。
江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。
と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。
一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。
龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。
外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。
「自由な大海に漕ぎ出したい」
およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。
河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。
アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。
同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。
そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。
小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。
日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。
大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。
「蒸気船の扱いを覚えたいがです」
文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。
江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。
「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、
「攘夷はとても無理ですろう」
「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」
「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」
麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。