日本の工業を米から守る。トヨタ自動車の創業者が胸に誓った決意

 

悪戦苦闘

3月には試作工場が完成し、「自動車の心臓部はエンジンだまずエンジンから作ろう」との喜一郎の決断で、シボレーのエンジンを見本に取り組んだ。

エンジンの主要な部品の一つにシリンダー(気筒)ブロックがある。筒状の穴をいくつもあけたもので、この中でガソリンを断続的に爆発させることによってピストンを押し上げ、これで推進力を生み出す。6気筒エンジンなら、この気筒の穴が6つある。さらにその周囲に冷却水の通路など、大小様々な穴が開いている。

このシリンダーブロックを鋳造で作る。砂で作った鋳型に電気炉でどろどろに溶かした鉄を流し込む。中空の部分には「中子」と呼ばれる砂型を入れておく。鉄が冷えて固まり、砂を取り除くとシリンダーブロックの形となる。

しかし複雑な形状をした鋳型に中子を入れ込むだけでも難しく、中子入れの名人がやっても3つに2つは中子がぼろぼろ崩れてしまう。喜一郎が調べさせると、フォードの鋳造工場では中子に油を入れていると分かった。いざやってみると中子は崩れずに入るようになったが、鉄を流し込んでみたら、油が燃えて千数百度に溶けた鉄が天井にまで噴き上がってしまった。それを見ていた喜一郎は顔色一つ変えずに「油の配合の問題だろう。原理的には間違ってないはずだ。みっちり研究してみなさい」と命じた。

7月から8月の暑い時期に、連日、天井まで鉄湯を吹き上げながら、汗みどろになって油成分の調整が続けられた。9月になって、ようやく噴き上げがなくなり、形はできるようになったが、今度は固まった鉄の中に巣と呼ばれる空隙が多くて使い物にならない事が判明した。それをなんとか乗り越えると、ようやくエンジンが動き始めたが今度は馬力がまったく出ない

俺はだんだん、親父に似てくる

こうした悪戦苦闘を続けるうちに目標の1年はとっくに過ぎてしまったがいまだエンジンさえできあがってない。左吉から渡された研究費100万円はとうに使い切っていた。あと何年続けたら、売れるような自動車ができるのか。銀行や株主たちは、喜一郎の自動車への取組みで豊田系の全事業が危うくなる、と責め立て始めた。

またたく間に春が来て4月下旬の深夜、しばし現場から離れて別室で休んでいた喜一郎は「俺はだんだん親父に似てくる」などと考えていた。左吉も周囲の無理解と貧窮生活の中で、動力織機の開発に取り組んだのである。

そこに激しいノックと叫び声が聞こえた。「エンジンが回っています。すごい馬力が出ています」。すぐに現場に駆けつけるとお手本としたシボレーの60馬力を超えて、62.3馬力でている。「うん、よかった」と喜一郎は微笑して頷いた。一人ひとりの油に汚れた手を握りながら「すぐに今晩から一号車の本格的な組立てを始めてください」。

今年中にはトラックの発売を開始する

5月下旬には乗用車の試作第一号が完成し、さらにトラックの試作も6月には軌道に乗りかけていた。そこに喜一郎は「トラックはすぐに本格生産を始め今年中には発売を開始する」と宣言して周囲を驚かせた。あと6ヶ月ほどしかない。

当時、フォードが横浜で巨大な自動車工場建設を計画していた。それが完成したら、国産自動車の芽はつぶされてしまう。そこで日本政府は実力と実績のある国産会社「一社、または数社」に絞って集中的な援助を行い、その他の企業は自動車生産を許さないという法案を準備中で、翌年1月には議会に上程されるとの情報を喜一郎は掴んでいた。

政府の期待する筆頭候補が鮎川義介が設立した日産自動車であった。鮎川は「国家・民族のために日本に重工業を始めすべての産業を打ち立てる」と宣言しており、アメリカのグラハム・ページという自動車会社の工場施設をそのまま買い取って、横浜の新子安海岸に大工場を建設しつつあった。

「国家・民族のために」という志こそ同じだったが、喜一郎は「人のものを(そのまま)受けついだものには、楽をしてそれだけの知識を得るだけに、更に進んで進歩させると云う力や迫力には欠けるものであります。日本の真の工業の独立をはからんとすればこの迫力を養わなければなりません」という考えであった。

しかし自前の技術開発にこだわっても、自動車生産・販売の実績があげられなければ、自動車事業そのものの道が閉ざされてしまう。「今年中にトラックを販売する」と決断したのは、そのためだった。

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