井深大はどうしたでしょう?
井深さんの口癖は「人のやらないことをやる」。
この期に及んで、クロマトロンでもシャドウマスクでもない、第三の方式を開発しようと言い出したのです。
これは正気の沙汰とは思えない、今から考えてもゾッとするような「経営判断」でした。
研究開発の世界は、俗に「センミツ」と呼ばれます。成功するのは一千のうち三つ、つまり0.3%程度しかないという意味です。その微かな可能性に社の存廃を賭けようというのですから、無謀としか言いようがありません。
もちろん、さしもの井深さんも、相当の度胸を要したことは想像に難くありません。
後に「トリニトロン」と呼ばれる新方式の基礎実験に成功したとき、井深さんはやはり安田さんのもとに駆けつけ、「これで行ける。行くっきゃないんだ」と強く何度も繰り返しました。
自身に言い聞かせ、鼓舞していたのでしょう。結果的に、この判断がソニーを救いました。
六八年に発売されたトリニトロン・テレビは爆発的にヒットし、以後約三十年にわたって会社の収益を支え続けたのです。
しかも自社開発だったために、優れた技術やノウハウがすべて社内に蓄積され、また先進技術を追求する会社として対外的なブランド・イメージが向上し、そして何より、自信と誇りと情熱を持ったエンジニアが何人も育ちました。これらが、その後の成長の礎になったことは言うまでもありません。
(「文藝春秋3月号 井深大『仕事の報酬は仕事』天外伺朗=作家・元ソニー常務」)
なんと、トリニトロン方式を開発してしまったのです! まあ、井深大が発明王と言われる所以です。
シャドウマスクにするなんて頭になかったんでしょう。クロマトロンがダメなら、新しい何かを作ればいい。まあ、凡人には理解できない発想です。でも、実際に1967年にトリニトロンカラーテレビを開発し、エミー賞まで受賞しています。全世界で2億8,000万台を販売するという、大発明をやってのけたのです。
まあ、次元が違い過ぎて、参考にならない感もあります。井深大は幼少より天才・奇才と呼ばれていた人です。早大理工学部時代にすでに70もの特許出願をしていました。その中の一つに「走るネオン」というものがあり、昭和12年のパリ万国博で金賞を受賞しています。今の流れるネオンのさきがけの商品です。
盛田昭夫と共に立ち上げたのが今のソニーになります。20数名の町工場だったようです。日本初のテープレコーダーを開発するのですが、売れ始めると大手メーカーが同用品を出してしまい、売れなくなる。そこで目を付けたのがトランジスタです。真空管の代わりになる素材です。
当時100個作っても3個しかまともなものが作れないと言われていた商品でしたが、その開発をやろうと動き出し、昭和29年国産初のトランジスタを開発し、翌年に世界初のトランジスタラジオを発表します。
「モルモット」。ソニーは新しいものを作る実験台になり、上手く行くと、大手に取られてしまう! そう評されていたみたいですが、井深大は、「モルモットで結構、決まった仕事を決まったようにやるのは時代遅れだ」。人真似ではなく、新しいものを創造する。それをやり続けた人だと言えます。