人間は生まれたばかりの時に一番細かく音韻を分節する能力を持っているらしい。それが、周りの言語環境によって、分節できていた異なる音韻を同じ音韻と見做すようになるのだ。たとえば、日本語の話者に囲まれて育つと、日本語の音韻を習得するし、英語環境で育つと英語の音韻を習得するのだ。言語を習得するとは、故に違いが分からなくなることなのである。多くの日本語のネイティブ・スピーカーはRとLの音の区別がつかないが、英語のネイティブ・スピーカーにとっては、RとLの区別は自明なので、なぜ区別ができないか理解できないだろう。
そこで、区別ができない日本人を低級だと思ったら、これは大間違いで、先に述べたように、区別ができる方がより動物的で、区別ができない方が人間的なのである。東京の下町で育った私は「し」と「ひ」の区別がよくできないので、小学校に上がる前までは(私は小児結核で幼稚園や保育園には行けなかった)、クリスマスのころ、「きよしこの夜・・」が聞こえてくると、私の夜だと思っていた。「きよしこ・・・」と「きよひこ・・・」が同じ音に聞こえたのである。日本語の母音は5つであるが、タイ語では10以上ある。私がかつて住んでいた茨城県では4つ(ア、イ、ウ、オ)で、母音に関しては日本で一番進んでいるよと言ったら、茨城県の友人は不機嫌であった。
連続的な音をどこで切断して、まとまった同一性を有する音韻を作るかに関しては、言語ごとに多少とも恣意的なので、この恣意性を共有していないと、言葉が通じない事態になる。言語にとってさらに重要なのは、この恣意性は音韻ばかりでなく、単語が指示する同一性のレベルでも起こることだ。こうなると、同じ単語を使っていても、時に自分と相手が想定している意味が、齟齬をきたすことになり、共通了解が難しくなる。(つづく)
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