日本の場合も似たような事情があるように思います。いわゆるワイドショー的な報道におけるナショナリズムの扱い、あるいは「現役世代が帰宅する前」の21時台のニュースにおける保守化なども、こうした現象と重ねて考えるべきではないかと思います。
問題は、この種の「マスのビジネスと化したナショナリズム」というのは、
- 人畜無害な範囲なのか?
- ならば無視・放置してもいいのか?
- そうではないとしたら、叱責・批判のアプローチがいいのか?
- 持てるもののグローバリズム、持てざるもののナショナリズムという転倒がある中で、批判は「上から目線」になるのではないか?
- だからと言って、貧困ゆえにナショナリズムに酔う層を「理解し、憐憫の情を寄せる」というアプローチが有効とも思えない。
ということを考えると、答えは簡単ではありません。
例えばの話、小平奈緒選手と李相花選手の「友情」にしても、小平選手が「芸能事務所」などのマネジメントを受けていたら、あのような自然体ではできなかったかもしれません。そう考えると、クヨクヨ悩まずに、小平選手のような自然体のキャラを育て、評価して行くのが一番いいようにも思います。