オリンピックは愛国心の暴走を防ぐ「ガス抜き」ビジネスなのか?

 

日本の場合も似たような事情があるように思います。いわゆるワイドショー的な報道におけるナショナリズムの扱い、あるいは「現役世代が帰宅する前」の21時台のニュースにおける保守化なども、こうした現象と重ねて考えるべきではないかと思います。

問題は、この種の「マスのビジネスと化したナショナリズム」というのは、

  1. 人畜無害な範囲なのか?
  2. ならば無視・放置してもいいのか?
  3. そうではないとしたら、叱責・批判のアプローチがいいのか?
  4. 持てるもののグローバリズム、持てざるもののナショナリズムという転倒がある中で、批判は「上から目線」になるのではないか?
  5. だからと言って、貧困ゆえにナショナリズムに酔う層を「理解し、憐憫の情を寄せる」というアプローチが有効とも思えない。

ということを考えると、答えは簡単ではありません。

例えばの話、小平奈緒選手と李相花選手の「友情」にしても、小平選手が「芸能事務所」などのマネジメントを受けていたら、あのような自然体ではできなかったかもしれません。そう考えると、クヨクヨ悩まずに、小平選手のような自然体のキャラを育て評価して行くのが一番いいようにも思います。

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