さらに、この事件では、被害者の女性は、Twitter(ツイッター)で、「あるメンバーに公演の帰宅時間を教えられ、またあるメンバーに家、部屋を教えられ、またあるメンバーは私の家に行けと犯人をそそのかしていました」という発言をしています。運営会社は「帰宅時間をもらしたメンバーはいるが、違法性のある行為をしたメンバーはいない」と発表しています。ここで、違和感を感じたのは私だけではないと思います。
不起訴にはなりましたが、犯人たちの犯罪行為があったから、警察や検察庁が動いたわけです。捜査の過程で、グループ内の女の子たちが事情徴収されるのには、根拠があります。実際、たしかに直接手をだしたのは男性ですが、そそのかしたり、住まいの住所や帰宅時間を教えた人間がいるならば、犯罪の共犯者として責任追及されることもありうるからです。
つまり、運営会社は、被害者よりも、犯人たちの共犯かも知れない女の子たちのほうを守ったのです。
ことが公になって、自分たちの運営管理のマネジメントの悪さが表面に出てきたり、評判が下がること、つまるところは、売り上げが落ちることを避けたいわけです。そうなると、被害者ひとりを抑え込み、「しゃべるな」「広げるな」という圧力をかけることは容易に想像がつきます、
結論として、会社擁護とその外見的名誉やブランドを守るために、被害者の救済を困難にしたり、隠ぺいしてはならない、と声を大にしていいたいのです。
しかし、一番、重要なことは、加害者が被害者に謝罪することなのです。たいていの場合、加害者側は、「自分は悪くない」と思っています。「ささいなことで大騒ぎする、被害者こそ悪いのだ」、「自分のほうが被害者だ」と思っています。
実は、学校のいじめ問題でも、同様のことが日本各地で起きています。少なくとも、同じクラスや部活といったグループの中に、被害者と加害者の両方がいたならば、即座に対応しなくてはならないでしょう。
ところが、先の運営会社のごとく、「事実関係の確認や人間関係の把握が先だ」、「第三者委員会に委ねる…」といった先送りにし、全く判断をせず、逃げる学校があとをたちません。時間だけが、過ぎていきます。それはなぜでしょうか。
第一に、なにが善でなにが悪か、わかっていないということ、第二に、悪行を行う人をしっかりと反省させる指導法を持っていないこと、第三に、人数の多い側つまり加害者側に対しての指導を避けようとすること、第四に、時間の経過によってうやむやにしたいこと、以上のように、学校は責任をとりたくないのです。だれも判断せず、物事を決めず、雲散霧消にしたいのです。