漱石の一句「ある程の菊投げ入れよ棺の中」はなぜ印象に残るのか

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日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんが今回論じるのは、漱石が詠んだ一句について。山崎さんは、句が持つ大きなエネルギーが心を捕らえると分析し、俳句鑑賞のおもしろさを伝えています。気がつけば、文芸作品に限らず、芸術に触れるにはいい季節になりましたね。

漱石の一句のこと

何の気なしに漱石の俳句集をパラパラやっていると、一つの句が目に留まった。

 ある程の菊投げ入れよ棺の中

こう書くと如何にも偶然のようであるが、実際にはそうではない。昔からこの句が好きで、この頁を開いたままで本を伏せたりなどしているうちにすっかり本に癖がついてしまい、パラパラしていれば自然この句に辿り着くというのが本当である。

漱石の俳句はいい。同級の正岡子規にはああだ、こうだ、と随分言われたようだが、小説家としての漱石を知っている我々からしてみれば、何か大作と大作の間にキラキラ光る小さな宝石を見つけたようで何とも言えぬお得感がある。

しかし、数ある漱石の俳句中でも何故この句だけがこれほどまでに印象に残っているのだろうか。

理由の一つは句が詠まれた状況が分かっているということである。これは才色兼備の閨秀作家であった大塚楠緒子への手向けの句なのである。つい「才色兼備」と言ってしまったが、漱石自身も『硝子戸の中』(二十五)などでその美しさに言及しているということを一応付け加えておく。堅物面の漱石にしてはちょっと艶っぽい話である。そこがまず面白いのであろう。

そして二つ目の理由は、この句自体が持つエネルギーの大きさである。少々分かりにくい言い様になってしまったので、ここで改めて当該句について分析してみたいと思う。

俳句のルールの一つに「句切れ」という概念がある。その一番分かり易い説明方法は句点、即ち「。」が打てるところが句切れであるというものであろう。それを少し理論的に整理すれば、

  • 活用語の終止形
  • 終助詞や係助詞(所謂「切れ字」)
  • 名詞(所謂「体言止め」)

となる。当該句においては「投げ入れよ。」であるから、二句切れということになる。こういった句切れが重要なのは、リズムを整えるといった韻文的な効果は勿論のこと、陳述性を高めるという散文的な効果をももたらすからである。

陳述とは全ての言語表現に潜在するエネルギーである。そして、それは文末に構文的職能として表れる。句切れとは即ち、俳句における文末的なものであるから、ここでエネルギーは最大となる。比喩を以て言うと、地殻にできたマグマの吹き出し口のようなものである。

さらに「投げ入れよ。」は命令形である。命令形は最も強い詠嘆表現の一つと言っていいから、ここには句切れと命令形の相乗効果でより強い詠嘆が生じることとなる。

加えて結句「棺の中」は所謂体言止めだから、これも詠嘆表現である。さらに初句の「ある程の」は「あるだけのものは全部」という意味だから、言葉の内面的意義からその詠嘆をくみ取ることができる。

実に五・七・五と詠嘆を並べて句としているのである。エネルギーが大きいと言ったのはこの謂である。その一方で、過剰な情熱みたいなものは微塵も感じられず、そこが却って手向けの句としての哀しさを際立たせている。漱石は優しい人であった。

 ある程の菊投げ入れよ棺の中

忘れ得ぬ一句である。

image by: katorisi [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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