靖国問題は日本をどう分断したか?リベラル派が無視するA級戦犯の真実

 

靖国神社の「8月15日」を汚した男たちの実名

もう一つ、仮に「戦没者の魂が靖国にいる」という信仰においては、その魂と再会できる日は、春と秋の例大祭のはずです。また、靖国といえども、日本の神社である以上は、仏教との習合の痕跡を残しており、盂蘭盆会の行事もちゃんとあります。ですが、こちらも新暦に合わせて7月に「みたままつり」として盛大に行われています。

ですから、靖国という信仰を持つ人にとっては、8月15日の宗教的な意味合いは薄いのです。にもかかわらず、以前から政治家が遺族会の票欲しさに参拝を行う、ついでに反対派にケンカを売って保守票に媚びるという悪弊が続いていました。

例えば、1975年の三木武夫総理の現職総理参拝強行という事件がありますが、これは「田中金脈」の後に登場した「クリーン政権」として、都市の世論には好感を持たれつつも、自民党の票田である保守票は押さえられない中での、極めて政治的な邪念100%の行動でした。そこに、1978年における松平永芳宮司(当時)によるA級戦犯合祀の強行という問題が重なってメチャクチャになっているわけです。

松平(故人)は、一種の確信犯のようですが、これによって8月15日の「騒がしさ」がある臨界点を超えて行くことになったと思います。いわゆるA級戦犯については、彼らには「自分は名誉も生命も剥奪されるが、それによって日本が平和になればいい」という沈黙の自己犠牲があり、そのことを国として重く受け止めるという「黙契」があったという考え方ができますが、その「黙契」も壊されてしまいました。

「不名誉を永遠に全て背負う」暗黙の契約

平たく言えば、この「黙契」というのは、不名誉を永遠に全て背負う、従って後世の人間はその名誉回復をしてはならぬ、その代わりに後世の人間は日本の平和と繁栄のために粉骨砕身努力をする、そのような契約です。

この「黙契」というのは、証拠はありませんが、本人たちと昭和天皇との「黙契」であり、それを直接の遺族たちは厳粛に同意し、同じように沈黙を守ったというのが私の理解です。当時の日本は独立を回復しておらず、従って枢軸国の国のかたちと、戦後の連合国(United Nations)入りした国のかたちの間の過渡期ではありましたが、1,500年以上にわたって綿々と続く日本史の連続性の中では、この「黙契」というのは国のかたちの奥底に秘められたと理解できます。

ちなみに、14名の全員が黙契を理解し、その当事者になったという理解はやや不正確で、特に松岡、白鳥などはそんな重みを受け止められる器ではなかったと思われますし、永野、小磯、平沼、梅津などもそうだと思います。東郷(茂徳)に関しては恐らく不本意ではないかと思われます。ですが、色々と問題はあるにしても、東條以下、刑死した7名については、特にこの「黙契」が本人にも家族にもあった、そしてそれは「黙契」であるがゆえに、一方の当事者である昭和天皇を含めて誰も何も書き残さなかったし、口外もしなかったと考えます。

東條に関しては、国策を南進論に誘導して亡国へ引っ張った責任はほぼ無限大であるわけですが、であるにしても、ソ連の和平仲介などという壊滅的な失策を重ねて自死した近衛などと比較すれば、少なくとも亡くなり方に関しては厳粛なものを感じます。勿論、逮捕前後の醜態など色々あった人ですが、末期の瞬間にはこの「黙契」を理解し、背負って歩んでいったのではないかと思います。

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