もし昭和天皇の玉音放送が1日遅れていたら日本はどんな国になったか?

 

同年6月8日の御前会議では「戦争の継続困難」で一致した。それでも、戦争打ち切りの結論には至らない。その会議の決議は以下のようだった。

「七生尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和を以て飽くまで戦争を完遂し、以て国体を護持し、皇土を保衛し、聖戦の目的達成を期す」

どんな状況であれ、決めたことは完遂しようとする。合理的、かつ臨機応変に対処することができない。陸軍の強硬姿勢に気圧されたのだろうが、現在にも通じる風景である。

下村元情報局総裁は自戒を込めて「見えすいた仮面。強がりの形式ばかりの、中味なき美文の決議」とこれを評した。そして、「陛下には深く軫念せられ」と、昭和天皇の心痛を思い描いた。

このままでは、和平はかなわない。海軍はともかく、陸軍には強硬派がひしめいている。天皇の側近、木戸幸一内府(内大臣)と鈴木首相は局面打開をはかる方策を話し合った。

二人が一致したのは天皇の「聖断」による解決だった。

1945年7月27日午前6時、サンフランシスコやホノルルの短波、サイパンの中波送信機から英米中三国の対日共同宣言、すなわちポツダム宣言が放送された。もはや一刻の猶予もない。

鈴木首相は世情の混乱を避け、軍部の反乱を防ぐため、ポツダム宣言について「政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである」と記者団に表明したが、もちろん内心は違っていた。

間もなく、広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が予定を早めて参戦してきた。日本はいよいよ追い込まれた。ポツダム宣言を受諾すれば決着がつくにせよ、天皇制はどうなるのか。軍の反乱を抑えるにはどうすればいいのか。下村氏はこう書いた。

「問題は内にあった…一歩を誤れば乱軍となる、ゲリラ戦ともなる。それでは国内の軍民はどうなるであろう、外地300万の軍はどうなるであろう、手はいつでもあげられる。しかし問題は、いかにして事無く終戦となるかにある」

鈴木首相はポツダム宣言受諾やむなしと考え、最高戦争指導者会議と閣議を、8月9日朝から10日未明にかけて計5回にわたって開催した。

会議において、東郷外務大臣はポツダム宣言無条件受諾のほかないと述べ、米内光政海軍大臣はそれに同意したが、阿南惟幾陸軍大臣は「本土来襲を機に大打撃を与えるべし」と主張した。陸軍の中堅将校の間にはクーデターをも辞せぬ空気があり、阿南陸相はそれを抑えるためにも反対姿勢を示さねばならなかった。

会議は紛糾した。受諾か否か。受諾するとして条件を付けるかどうか。付けるなら、条件は「天皇制護持一つのみ」、いや「武装解除と戦犯裁判は日本人の手で」を加えるべし、などと意見が分かれたが、鈴木首相は最後まで意見を差し挟まず、決をとる代わりにこう述べた。

「事態はもはや一刻の遷延を許さず。まことに異例でおそれ多きことながら、聖断を拝して本会議の結論といたしたく存じます」

昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を主張する東郷外相に賛成した。「このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい」という趣旨の発言だった。

この1回目の聖断を受け、東郷外相は「天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないという了解のもとに日本政府は共同宣言を受諾する」という内容の文案をまとめた。

鈴木首相は受諾決定を宣言し、この文書をスイス政府を経由して米国に、スウェーデン政府を経由して英国に送り、回答を求めた。

8月12日の朝、米英ソ中四国の回答が放送されるや、日本政府と軍部は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

回答には「国家統治の権限は最高司令官の制限の下に置かれる。政府の形態は国民の自由意思による」と書かれていた。天皇陛下は、国体護持は、どうなるのかについて、これではよくわからない。

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