問題になったのは英語の原文にある「subject to」の訳し方だ。外務省は最高司令官の「制限の下に」と訳したが、陸軍は最高司令官に「隷属する」という意味にとれるとした。阿南陸相は「これでは日本は亡国となる」と木戸内大臣に抗議、瞬く間に不穏な空気が広がった。
一方、ニューヨーク・タイムズ紙は、東京時間の13日午前1時までに日本政府から回答がなければ米英軍が日本全土に総攻撃を加えると報道、危機一髪の切迫感が伝わってきていた。
スチムソン米陸軍長官の回顧録によれば、ポツダム宣言の原案には「日本は現在の皇統の下に立憲君主制を維持できる」という一項が入っていたという。
「無条件主義」を貫くため、宣言文からその一項は除かれたが、日本軍をすんなり降伏させるには天皇の存在が必要というスチムソン氏の考えは概ね、米国で受け入れられていた。日本側はそこをくみ取れず、蒸し返したかたちになってしまったのである。
陸軍では、一部の中堅将校らがクーデター計画を練っていた。「14日午前10時、クーデターを発動する」。13日夜には、その計画を阿南陸相、梅津美治郎参謀総長に伝えた。
終戦のための御前会議は14日午後に予定されている。クーデターはそれより前に決行する必要があった。
阿南陸相、梅津参謀総長の承認が得られないまま一夜が明け、彼らにとって予想外のことが起きる。
御前会議が突然、14日午前に繰り上げられたのだ。その日午前10時前、首相官邸で定例閣議にそなえていた閣僚たちに知らせがあった。「御召により10時半に参内せよ」と。
なぜ御前会議の時刻を繰り上げたのか。鈴木元首相は次のように語った。
「連合国の回答に対し、閣員15人のうち3人は受諾に反対し譲らない。軍部その他は極度の興奮と混乱にあり、アメリカの新聞放送はしきりに我が回答の遅延を責めている。内閣から正式手続きをとって御前会議を奏請しては間に合わないので、宮中からただちに思召を願い、10時からの閣議は中止、そのまま御前会議となった」
つまるところ、一刻も早く終戦を確定させないと大変な事態に陥ることがわかっていたからである。
こうして、天皇は14日午前11時ごろ、御前会議において、二度目となる「聖断」を下した。
「これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体問題については、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っていると解釈する。陸海軍の将兵の気持ちはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」
詔勅の玉音が録音されたのは14日の夜だ。降伏を阻止しようとする陸軍将校は命令書を偽造して宮城を占拠し、近衛第一師団長、森赳中将に決起を促した。森中将はこれを拒否したため、殺害されたが、反乱の動きは一部にとどまり、鎮圧された。いわゆる「8・15事件」である。
半藤一利著『昭和史』によると、連合国は日本占領の統治政策として、最初の3か月はアメリカ軍が統治するが、その後の9か月は米英中ソの四か国が進駐し分割統治することにしていた。
その中身が成文化されたのが8月15日であった。もし、玉音放送がたとえ1日でも遅れていたらどうなっていたのだろうか。そう思うと、ぞっとする。悲劇のなかにもたまさか僥倖があり、かろうじて今の日本があるということを肝に銘じておきたい。
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