もし昭和天皇の玉音放送が1日遅れていたら日本はどんな国になったか?

shutterstock_251930275
 

今年、終戦から75年という節目を迎えた日本。あの日以来「不戦の誓い」を守り続けている我が国ですが、玉音放送があと1日でも遅れていたら、現在のこの国の姿はなかったかもしれないという事実をご存知でしょうか。今回のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』では元全国紙社会部記者の新 恭さんが、「君側の奸」と呼ばれながらも日本を終戦に導いた鈴木貫太郎内閣の足跡を、巧緻な筆致で記しています。

8月15日の意味を今一度かみしめたい

国際法上でいうなら、日本と、ソ連を除く連合国との終戦が成立したのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日のことである。

一方、米国が「対日戦勝記念日」としているのは、重光葵外相が戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名した1945年9月2日だ。

そして、日本では昭和天皇の玉音放送が流れた1945年8月15日を「終戦の日」とし、今年で75回目の記念日を迎えた。

ベトナム反戦運動、大学紛争の時代を駆け抜けた「戦争を知らない子供たち」はもはや老人になり、その子や孫たちにとって「戦争を知らない」というフレーズに、とりたてて意味はないだろう。

しかし戦争のない平和な時代がいつまで続くかはわからない。世界の国々にはいつの間にか独裁的な指導者がのさばり、自国エゴを正当化したり、批判的な人物を抹殺したり、民族や人種への偏見を煽ったりしている。国家レベルの疑心暗鬼が広がり、大国は軍事力増強に余念がない。

いつも人は危険と隣り合わせだ。コロナにうち震えている間にも、南海トラフ地震や、富士山大噴火の起きる刻限が迫ってきていることは歴史が物語っている。福島第一原発事故だって、もっと運が悪ければ、首都・東京を死の灰で覆っていたかもしれない。

日本は75年前、やっとのことで、平和への切符を手に入れただけである。あたりまえの命、当然の平和だと思ったら大間違いだ。

もしあの日、陸軍の中堅将校らのクーデターが成功し、玉音放送の録音盤が保管場所だった宮内庁から奪われたとしたら、戦争はさらに長引き、本土決戦で多くの人々が命を失い、それを継ぐ新しい命も生まれなかっただろう。

玉音放送にまつわる話は、映画『日本のいちばん長い日』や、原作者である半藤一利氏の同名のノンフィクションなどでよく知られているが、玉音放送を録音した当事者によって、終戦直前の政府と軍部の葛藤が克明に描かれた著作があるのは、意外に知られていない。

終戦時の鈴木貫太郎内閣で情報担当大臣(情報局総裁)だった下村宏の『終戦秘史』である。

下村情報局総裁は玉音放送の録音を終えた後、宮城(皇居)から出ようとしたとき、陸軍の将校たちによって二重橋畔の衛兵所に監禁された。その間、将校らは玉音放送の録音盤を入手すべく、宮城内を血眼になって探し回ったものの、日本放送協会の職員や侍従らの機転によって阻止された。

下村氏は1945年4月7日、枢密院議長だった鈴木貫太郎の内閣が発足すると同時に国務大臣となった。日本放送協会会長が前職である。

サイパン失陥で辞職した東條英機首相の次が小磯國昭首相。そのあとを受けた鈴木貫太郎首相の使命は、終戦という難事を成し遂げることだった。軍部の強硬派から「君側の奸」と呼ばれた昭和天皇の重臣グループの1人が、鈴木貫太郎だ。

すでに日本の連合艦隊はフィリピン沖でほぼ全滅し、硫黄島の戦いにも敗れ、米英は沖縄に上陸して戦闘を始めていた。和平の必要性は明らかだった。だが、それを言い出すには勇気を要した。陸軍は本土決戦を想定して「本土決戦完遂基本要綱」を作成していたのである。

しかも、和平の仲介を、日ソ中立条約の相手国というだけでソ連に頼むという見当外れな計画に政府はこだわっていた。その年の2月には、チャーチル、ルーズベルト、スターリンのヤルタ会談で、ソ連がドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦することまで話し合われていたというのに、悲しいかな、大和魂を鼓舞するばかりで情報分析力に乏しい軍部には世界の動きが見えなかった。

print
いま読まれてます

  • もし昭和天皇の玉音放送が1日遅れていたら日本はどんな国になったか?
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け