ポテサラ論争で浮き彫り「他人がラクするのが許せない人」の勘違い

 

ポテサラくらい作れジョーシキを振り回すおじさんのお話でしたね。

特定の世代・特定の社会でしか通用しないのに、それを他者にもヘーキで押しつけるポテサラおじさん。ま、世界が狭くてガンコな人はそんなモンなんでしょう。

ポテサラおじさんに賛成するツィートもたくさんありました。正直、ビックリしましたね。ポテサラを作ってもいいですけど買ってもいいと思うんです。その日にもその人にもいろいろ事情があるわけでね。ま、ツイッターでは炎上すると、話が異常に拡大されたり単純化されたり歪められたりするので、まともな議論が出来なくなってしまいますけどね。

ただ、ポテサラおじさんとその応援団には

  • 苦労して家事をすることが美徳

という価値観があるのではないか?と感じました。

ポテサラおじさんの考えの中核は、おそらく

  • ポテサラ(という「カンタンな」料理)くらい
  • 母親(という「子供を守り育てる立場」)なら
  • (疲れていようと時間がなかろうと)手作りしろ
  • 惣菜を買うだなんてラクをするな

ということだろうと思います。ここでポイントは

  • 特定の立場の人に苦労を要求している

ということです。いや、私の勝手な分析ですけどね。

  • 母親なら、ポテサラくらい作れ
  • 母親なら、片付けは得意のはず
  • 母親なら、入園グッズくらい手作りして

……

うん。暑苦しいだけじゃなくて、悲惨ですよね。おそらくこの人たちは

  • 努力と苦労を混同

しているんだと思うんですよ。いや、問いかけておいてナンなんですけど、混同していると断定しているんですよ、私としては。

この2つの定義を調べてみると、

  • 苦労=「精神的肉体的に力を尽くし、苦しい思いをすること」
  • 努力=「意志・意図によって維持される心的身体的活動とその際に生じる主観的な緊張感」

もうぜんっっっぜん違いますよね。

苦労は、主観的に「苦しい」というところがポイントなのに対して、努力は「身体的活動と緊張感」で、苦しいか楽かどうかは

  • 関係がない

んです。楽しく努力しても定義上「努力」ですが、楽しく苦労したらそれは定義上「苦労」とはいわないってことです。

どうしてこんな混同が起こるんでしょうか。

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