先日掲載の「小栗旬が豹変か?『鎌倉殿の13人』で頼朝の死後に起こる権力闘争」では、劇中で小栗旬が演じる北条義時の功罪を検証した、時代小説の名手として知られる作家の早見俊さん。そんな義時が幕府の権威を高めた鎌倉時代の終焉から時を経ること二百数十年、信長、そして秀吉が政権を握った時期を一般的には「安土桃山時代」と呼びますが、近年その呼称を巡り論争が巻き起こっているようです。早見さんは今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』で、この呼称問題を取り上げるとともに自身の見解を提示。さらに「江戸時代」の始まりの時期についても考察しています。
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秀吉の天下倒壊 慶長伏見地震
近年、「安土桃山時代」という時代区分に異議が唱えられています。「安土大坂時代」に改称を求める声が上がっているのです。秀吉の本拠は大坂城で秀吉は大坂城で政務を執っていた、と思われているからです。
秀吉は関白に成ると、政庁として京都に豪壮な聚楽第を造営しました。関白は天皇を補佐して天下の政を担う役務である為、京都に常駐、本拠としたのです。秀吉は家督と関白職を甥の秀次に譲ると、聚楽第を出て伏見桃山城を造営して移り住みました。伏見城は前述したように隠居城でした。
その後、秀吉は自分の子秀頼に跡を継がせる為、秀次に謀反の疑いをかけ、切腹に追い込み、聚楽第も破却しました。以後、伏見城が秀吉晩年の政庁となります。伏見城、つまり桃山が天下の政の中心であったのは、実は秀吉死後も続いたのです。
関ヶ原の戦いの直前、伏見城は家康の武将鳥居元忠が守っていましたが、石田三成の軍勢に攻められて落城しました。伏見城は焼失しましたが、家康が再建し、家康は伏見城で秀吉死後の政務を執り行い、征夷大将軍の宣下を受けました。
もちろん、徳川の本拠は江戸城でしたが、家康は江戸城ではなく伏見城で政務を行いました。家康は2年で将軍を辞し、秀忠が二代将軍となりますが、秀忠も伏見城で将軍宣下を受けたのです。家康は駿河の駿府に巨大な城を造って移りました。以後、駿府城で大御所政治を行います。
時の為政者の本拠地が時代区分の名称となるのであれば、やはり、「安土桃山時代」の呼称通りだと思います。更に勝手気儘に記せば、家康が駿府城に移った慶長11年(1606)までは、「安土桃山時代」と言えるのではないでしょうか。すると、江戸時代はそれ以降ということになり、家康の将軍任官がスタートではなく、秀忠の将軍宣下こそが江戸時代の始まりとなってしまいます。
また、為政者の本拠地が時代区分の呼称ということにこだわると、「安土桃山時代」と、「江戸時代」の間に、「駿府時代」が存在することになりますね。
何だか言葉遊びというか、歴史の本質から外れてしまうようですので、やはり、家康が将軍に成った慶長8年(1603)を以って徳川幕府開闢、江戸時代の始まりとするのが正解でしょうか。
次週はそんな伏見を襲った大地震について語ります。豊臣政権末期、晩年の秀吉を巡る陰謀渦巻く伏見で展開されたドラマにご期待ください。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年5月20日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください。初月無料です)
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