中国とは異なる。日本が国家統一に武力ではなく「文化」を用いた理由

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各地に豪族が群雄割拠していた古代の日本。そんな彼らを、朝廷はいかにしてまとめ上げ従わせることに成功したのでしょうか。今回のメルマガ『ねずさんのひとりごとメールマガジン』では作家で国史研究家でもある小名木善行さんが、朝廷が「文化による精神面での統一」という道を選んだ理由を解説。さらにその具体的な3つの方法を紹介しています。

バラバラだった世の中を統合する

6世紀の終わりの中国に、隋の大帝国が建国されました。隋は、破格の超軍事大国であり、周辺国を次々に従えて行きました。

それまでの中国は、内乱続きでしたから、我が国としては放っておけば良い存在でした。けれど隣に超軍事大国ができたとなれば、日本もまた、国を守るために中央朝廷のもとに日本を統一国家にしていかなければなりません。

この時代の日本は、全国の諸国にある豪族たちのゆるやかな集合体でした。日本語で国という用語は、もともとは出雲の国とか、伯耆の国といったように、旧行政区分の、いまでいう都道府県に相当するものが国です。日本全国のことは天下(あめのした)と言いました。

全国にある諸国が、すべて国なのです。当然、それら諸国には、その国を統べる国王がいました。よく、富士王朝とか、関東王朝、九州王朝などといった言葉を用いる人がいますが、都道府県ごとに国なのです。ですから、それぞれの国ごとに国王がいても、なんら不思議はありません。

けれど外圧の前に、日本を統一国家にするとなると、天下を国と呼び替え、国王を諸国の豪族と呼び替えなけれなりません。日本はもともと万年の単位で続く国で、全国諸国の諸豪族たちも、それぞれ先祖をたどれば、日本全国、全員が親戚です。そしてその中の本家といえるのが、中央の天皇家であったわけですから、一見すると、すぐに統一国家を形成できそうなものですが、世の中はそうそう甘くはありません。

現実に日本が、いわゆる統一国家になれたのは、こうした問題意識が芽生えた6世紀の終わり頃から、結局は平安時代の初頭、つまり8世紀の終わりまで、都合およそ200年の歳月を必要としたのです。

みんな親戚なのに、どうしてそんなに月日がかかるのかといえば、これは当然のことです。基本的に隣国同士というのは、仲が悪いのです。しかもこの時代、荘園単位で所属があった時代です。ひとつの国(いまでいう都道府県)の中に、天皇の荘園もあれば、中央貴族の荘園もあり、地方豪族の荘園もあるのです。学校の歴史地図が簡単に色分けしているほど、世の中は単純ではなかったのです。

そして荘園では、基本的に稲作が行われています。川上から川下まで、同じ貴族の保有する荘園であれば、問題は起きません。けれど、所属が異なる荘園同士では、毎年の田植えのための利水権をめぐって毎年対立が起こるし、上流で大きな建物を建てるために森の木を切り倒せば、大雨のときに土石流が発生し、下流域に大規模な被害をもたらすこともあります。その都度、利害の調整が行われるのですが、それは同時に、喧嘩の種にもなったりもしていたわけです。

つまり、ひらたくいえば、互いに仲が悪い。その仲が悪い者同士を、ぜんぶ一緒にまとめて、統一国家を形成しなければならなかったのです。

このことは、新興企業などで、多数の中途採用があったとき、それぞれの中途採用者たちが、互いに対立したり喧嘩になったりすることと同じです。それまでの人生経験が異なるのです。やり方や方法、仕事への文化感や価値観が異なるのです。むしろ、争いが起こらないほうが不思議と言って良い。

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