昭和という時代を代表する知の巨人・澁澤龍彦。小説家・評論家である彼はまた、「エロティシズムと残酷の総合研究誌」を掲げた『血と薔薇』の責任編集者の顔も持ち合わせていました。今回のメルマガ『家畜人ヤプー倶楽部』では、小説『家畜人ヤプー』の全権代理人にして『血と薔薇』の創刊者でもある康芳夫さんが、澁澤が同誌の責任編集を降りた真相や自身と彼との関係悪化の理由を告白。さらに澁澤の「美学」や人となりを語っています。
康芳夫、澁澤龍彦を語る。「澁澤の『血と薔薇』にかける意気込みは相当なものでした」
澁澤の『血と薔薇』にかける意気込みは相当なものでした。ただ、僕たちの考え方の違いとかその他色んなことがあって3号で降りちゃった。それで4号目で平岡正明を責任編集兼編集長にして、そこにヤプーを載せた。
この間平岡が死んでね、大きな葬儀で若松孝二君とかみんな来ましたよ。当時平岡はすでに色んな本も書いてたしね、ある意味ではすでに有名人だった。澁澤にしてみたら、ヤプーが自分と入れ替わりに掲載されたというのはきわめて複雑な心境だったでしょう。僕との関係も『血と薔薇』の一件以来微妙なことになっちゃって、絶交状態というか、会うには会ってたけど、そのうちに死んじゃったしね。
澁澤と三島はとても親しかった。澁澤美学と三島美学はちょっと違うんだけど、両者お互いにインタラクトというか、フィードバックし合っていた。彼は東大仏文科が生んだ、一つの奇形児ではあるよね。決して正統派ではなく、大学もほとんど行っていなかったし、脇に外れた、言わば東大仏文科劣等生ですよ。
でも、自分でああいう世界をつくって、受け売りという言葉は彼には失礼だけど、元ネタが全部ヨーロッパにあって、それが彼が元々持っていた嗜好と一致したっていうこともあるだろうけど、独特の美学及びディレッタンディズムと、何と言うか、趣味性の強い男だった。
あれ以来ああいう人は何人かでてるけれど、東大仏文科が生んだ最初の奇型ディレッタントであるし、かつ、変種だな。突然変異みたいな。今も澁澤の本が昔程読まれているということはないけど、根強い人気はあるね。
今、『血と薔薇』が4冊並んでいることはほぼないけど、昔は4冊並んでいると15万とか20万くらい値段がついた。一度当時の編集者が河出から復刻させたんだけど、権利は僕のものだからそれは法的に差し止めた。4巻で終わっちゃったのは、うちの会社もおかしくなっちゃったし、経済的な理由もあって、やめちゃったんですよ。その後僕は最終的にパートナーだった神彰と別れて、それでモハメド・アリをやったわけ。
『血と薔薇』は当時1冊1,000円ですから、今で言ったら1万円で、最初の本格的なエロス美学雑誌とは銘打ってたけど、実際は高級エログロ誌。ただ、あの頃は情報が拡散してなくて、今は情報が極度に分散している。もう、ああいう雑誌をつくるのは物理的に無理だと思いますね。
※ 『虚人と巨人 国際暗黒プロデューサー 康芳夫と各界の巨人たちの饗宴』より抜粋
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