平安貴族の頂点に君臨した男・藤原道長が恋をしたのは、あの紫式部だった?

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平安の世を謳歌した御堂関白こと、藤原道長。平安貴族の頂点に君臨した彼は実際どのような生活を送っていたのでしょうか? 今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、藤原道長とあの紫式部との関係についても語っています。

藤原道長と紫式部

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」

という有名な和歌を詠んだように平安の世を謳歌した御堂関白こと、藤原道長。華麗なる平安貴族の頂点に君臨し、栄耀栄華を極めました。かのモテ男、光源氏のモデルとも言われ、御堂関白と称されました。

ところが、彼は摂政や左大臣、太政大臣には就いていますが関白には就任していません。関白以上の権力者であったがゆえに、公家社会の頂に立つ関白だとみなされていたのでしょう。そんな絶対権力者だった道長は女性に恵まれました。女性というのは娘たちです。四人の娘が四人の天皇の皇后となり、三人の孫が天皇になったお陰で、道長は絶大な権勢を得ることができたのです。

当然、女性関係にも不自由することはなかったのですが、後の世の関白豊臣秀吉と比べるとぐっと控え目です。側室は置きましたが、秀吉のように目に留まった女は見境なくということはありませんでした。

もっとも、清廉潔癖ではなく才女、紫式部にちょっかいをかけようとしたそうです。紫式部の寝間の戸を一晩中叩き続けたのですが、式部は戸を開けず、朝までじっとしていて、戸を開けていたらと思うとぞっとすると日記にしたためました。してみると、紫式部には振られ、式部は道長を嫌っていた、ということは光源氏のモデルではないのかもしれません。一晩中、好きな女の寝間の前で佇む権力者、いと哀しですね。

宮中では控え目だったせいか、宮中外となると男の欲望を爆発させました。神社、仏閣に詣でたり、別荘に行った折には遊女を呼んで派手に遊んだのです。一条天皇の皇子、敦康親王を宇治の別荘に招いた際には、四十人もの遊女を呼びました。

遊女らと歌を詠み、音曲に興じ、もちろんセックスも大いに楽しみ、自らの衣の他、絹百匹、米百石を与えたそうです。この時、敦親王は十四歳の若さ、童貞でした。道長は親王の筆下ろしの段取りをしたのです。遊女に童貞を捧げたことを知った一条天皇は激怒したとか。藤原道長、女性には外弁慶だったのかもしれません。

道長を振った才女紫式部について記します。

紫式部には地獄に堕ちたという伝説があります。「源氏物語」などという嘘話を書いた罪によって地獄に堕ちたとされたのです。紫式部地獄堕ちに関わるのが小野篁です。小野篁は平安時代初期の歌人、政治家ですがそれは昼間の顔、夜は冥界で閻魔大王の裁判の陪審員を務めていました。自邸の井戸が冥界への通り道であったとか。

紫式部の墓は小野篁の墓の隣に建てられており、これは式部が小野篁に地獄から出してくれるよう頼んでいるからだと言い伝えられました。(『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』2024年3月12日号より一部抜粋)

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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