そして1993年7月7日、トルコの徒歩旅行最後の日がやってきた。
前方から走ってきた乗用車が横に停車し、風貌のよくないドライバーが窓越しに声をかけてきた。三白眼でこっちを睨みながら、いかにも酔っていますみたいなしゃべりかたである。
「このあたりにゃテロリストがいるかもしれんから、歩くのは危ねえ。早く車に乗れ」
「あちこちの軍や警察で事情を話し、昼間ならだいじょうぶだといわれて歩いている」
僕の答えに面食らった表情を見せたのもつかの間、彼はこう言い放った。
「俺だっておまわりだ!」
しかしこの男の放つ雰囲気が、警察官というよりよっぽどテロリスト然としていたので断ると、
「テロリストに襲われても知らねえぞ」
と捨て台詞を吐いて去っていった。
男の正体はわからずじまいだったが、それからしばらく行くと今度は前方からパトカーが来た。前の男と違って、降りてきた警察官はたいそう慇懃だった。
「ここから東方面はたいへん危険なので、パトカーに乗ってください」
ああ、とうとうこの日が来たか。ここまで十分に情報収集したうえで歩いてきたものの、僕は確実に神経をすり減らしていた。テロはどこで発生するかわからないが、実際に近場で発生している。いつも胃はキュルキュルと音を立て、寝つきも悪い。そして疑心暗鬼になる。テロとの戦いは神経戦だとわかった。
精神的に疲労困憊の僕にとって、このドクターストップならぬポリスストップはまさに天の恵みだった。三白眼の男の車への同乗は断固拒否したが、今度は素直にパトカーの後部座席に乗り込んだ。
そこから約50キロ離れたアールまでの車内は楽しかった。同乗の3人の警官はいろいろ聞きたがるし話したがる。僕はポルトガルからずっと歩いてきた旅の話をし、つぎはイランを歩くと伝えた。
愚問とはおもいつつ、テロは怖くないかと尋ねると、僕の隣に座った警官は腰から拳銃を引き抜いて毅然と答えた。
「やつらが来たら、これでズドンだ。ちっとも怖くねえや」
僕は彼の勇ましい返事に安堵したものだ。
ちなみに彼らが拳銃以外に所持していた自動小銃はロシア製だとか。
また、運転手役の警官はもともとドイツのブンデスリーガでプレーしていたプロサッカー選手で、当時一緒だった奥寺康彦は友だちだといった。彼は華麗なドリブルで相手ディフェンス陣を切り崩すように、巧みなハンドルさばきを披露して穴ぼこだらけの道路をぶっ飛ばす。それでもときどきタイヤが穴にゴボッとはまって車体が大きくきしむと、こう愚痴った。
「まったくトルコの道路は安っぽい。ドイツのアウトバーンは最高だったよ」
アールの警察署前でパトカーを乗り換える。どこへ連れていくんだと聞くと、このままイラン国境まで送るという。なんとトルコ警察は170キロも先の国境までパトカーで送迎するという。待て待て、パトカーなんだから、やっぱ護送か。