では、どうして日本には、共通価値観はないのでしょうか?
一つには、長い歴史のせいということがあります。江戸時代から明治時代にかけて、法律は「お上が庶民を取り締まるため」のもので、庶民はお上の暴力から身を守ったり、コッソリ自由を満喫したり、その両者には共通価値観はなかったのです。
また20世紀には資本家と労働者という分裂もありました。労働者は、とにかく自分の立場を守るためには法律を盾に戦わなくてはならず、一方で資本家はカネを守るために戦うわけで、その両者にも共通価値観というのは無理だったのです。
その結果として、「共通価値観」がないということを前提に、なんでも細かくルールを決めて、バカみたいにそれを守るという不思議な社会が出来上がったのです。中学生や高校生にバカバカしい校則を押し付けるのも、そうしたルールで管理しないと組織が回らないという教員のスキル不足ということもありますが、それ以前に先生と生徒が共通の価値観に基づいて信頼関係を作るというのでは「ない」ミニ社会の存在があるのだと思います。
ですが、そうした法律やルールの考え方は、もう限界です。技術の進歩や、情報流通の拡大によって、社会の変化スピードはどんどん加速しています。その一方で、外国人労働者の流入や、企業の多国籍化によって、海外の様々な価値観が入ってきていますし、またグローバルスタンダードへの接近という現象も見られます。
そんな中で、貿易やビジネスだけでなく、多様な人々が共存して生きて行くための「共通価値観」というものを作っていかなくては、もう社会は回らないのではないかと思うのです。その上で、新しい犯罪については裁判員裁判で判例を積み上げて行く、そうでなくては社会の変化スピードに追いつかないのではないでしょうか。
専門的に言えば、英米法的な「コモンセンス」の考え方を日本風にアレンジして、グローバルスタンダードと整合性を取るという作業になり、これはこれで当初は大変になると思います。ですが、そのようなシステムを作っておかなくては、もう日本の社会は回らないのではないかと思います。
中高生の教育も、「ルールがあるから守るのが道徳」だという江戸時代のような発想ではなく、「より有効なルールを作るには?」とか「ルールの元になる共通価値観とは?」ということを考えさせ、スキルを磨くような教育に変えなくてはダメだと思います。
あおり運転の結果、「うっかり追越車線に止めた」ので、相手が死んでしまった、それが「未必の故意による殺人」でもなければ「危険運転致死」でもなく、「過失致死」で終わってしまう可能性のある社会を変えるには、そのような抜本的な改革が必要と思うのです。
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