千利休、切腹の謎。「真田丸」でも描かれた京都「大徳寺」のヒミツ

 

禅宗寺院の中でも、特に大徳寺と茶の結びつきは深く強いものがあります。これは「茶の湯」の祖・村田珠光(むらたしゅこう)が、大徳寺の一休宗純から禅を学んだことに由来します。「茶の湯は珠光から武野紹鷗(たけのじょうおう)を経て千利休によって大成されました。武野紹鷗は侘び茶と四畳半の草案茶室を融合させ茶道を今日の形に発展させた人です。紹鷗が住んでいた邸宅は京都の中心地で祇園祭の鉾町の一つである四条室町の菊水鉾町です。当時邸宅のある敷地内に菊水の井が湧いていたことに由来しています。この菊水の井からくみ上げた水でお茶を点てていたことから、今でも祇園祭期間中には菊水鉾町でお茶席が設けられています。今は菊水の井は枯れていますが、その跡が石碑によって示されています。

千利休自身も大徳寺と深いつながりがあります。利休は大徳寺に三門赤毛閣を寄進しています。その楼上に自分自身の本像を安置しています。しかし、このことが秀吉の怒りをかって自害を命じられています。秀吉はこの三門を出入りする自分自身や高貴な人達を利休の足もとにふみつけるとは無礼だと考えたのです。怒った秀吉は利休に切腹を命じ利休は70歳で自分の手によって生涯を閉じました。

大徳寺山内には、村田珠光の作庭と伝えられる庭を持つ真珠庵もあります。また、江戸時代初期の茶人としても有名な小堀遠州が創建した孤篷庵(こほうあん)もあります。本堂の北側にある茶室「忘筌席」(ぼうせんせき)は京都の三名席の一つです。魚を取れば筌(魚をとる道具)を忘れるという意味で、目的を達成すれば手段を忘れるという意味です。禅の悟りの境地と結び付けられている言葉が茶室の名前になっているのです。

大徳寺は俗に「茶面」(ちゃづら)と呼ばれます。千利休が帰依して以来茶道との関わりが深いからです。また千家の菩提寺である聚光院以外にもほとんどの塔頭寺院に茶室があることからもそう呼ばれるようになりました。私は茶道、華道、絵画などの文化芸術の知識や造詣がありませんが、そのようなたしなみがある方に大徳寺は是非お勧めです。もちろんそうでない方も魅了してしまう強い魅力が随所に詰まった名所なので紅葉の時期などに拝観してみて下さい。

image by: Wikimedia Commons

 

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