1994年、すでに日本でVRを活用している事例が存在していた

2016.12.10
by まぐまぐ編集部
 

発達期の子どもたちにVRのような強烈な刺激を与えるのはいかがなものか、という意見も少なくないだろう。現在でも、その方が多数派意見かも知れない。しかし、この研究会の発想は全く反対であった。小児病院の小林登院長は、東大医学部教授時代からデジタルメディアの育児における役割を積極的に評価してくれていた。1969年に始まる「セサミストリート」が、就学前の子どもたちの教育に好ましい影響を与えたことはよく知られている。

この研究会の活動のうち最大のものは、1994年の夏、山中湖で行われた難病の子どもたちのキャンプ「がんばれ共和国」の「バーチャル・サッカー」であろう。これは「夢のテレビ」の発展形ともいえるもので、冒頭の写真がそれである。山中湖の子どもたちとJリーグ・横浜マリノスの選手たちが、ハイビジョン衛星回線でつながれ、サッカーのPK戦をバーチャルに行ったのである。会場にはパラボラアンテナをつけた中継車がやってきた。

子どもたちの正面には、当時としては大型のハイビジョンスクリーンが置かれ、そこには横浜のサッカーゴールとキーパー(選手)が映っている。子どもが蹴ろうとしているボールにはセンサが仕込まれていて、蹴った力の大きさと向きが検出され、それからボールの軌道が計算され、画面の中をCGのボールが飛んでいく。ゴール前の選手の前にも、TV画面が置かれ、ボールの飛んでくる様子が見えるようになっていた。選手が動くと、体重を感じるセンシングカーペットがその位置を計測し、飛んでくるボールの軌跡上に立てば、キャッチしたことになる。大規模なTV会議を作ったわけである。あとで考えれば、ハイビジョン映像回線をこれほどインタラクティブに利用したのは当時としては画期的なことではなかっただろうか。

子どもメディア研究会は、2005年ぐらいまで続き、今は各メンバーがえらくなりすぎて気楽に集まれなくなって、なんとなく休止している。しかし、それはそれでよいと思っている。気楽な会であるがゆえに、医学・工学・心理学・アートという広い分野の人が集まり、議論し、時には大きなプロジェクトを成し遂げた。そこで得た人脈は著者の研究人生において大きな役割を占める。最近は、こういう学際的組織を計画的に作ろうとする動きもあるが、計画していないからこそ、部活だからこそ、凝集力が出てくるという側面もある。

こういうボランティア的組織であったゆえに、記録があまり残っていないという問題もあり、今回は写真集めに苦労した。しかし、スピルバーグが、難病の子どもたちのためにコンピュータを使おうという、「スターブライト計画」を提唱するのがちょうどこの研究会発足に前後してのことであるから、社会人の部活にしてはずいぶん先進的なことをやったものだと思っている。

image by: Shutterstock

 

著者/廣瀬通孝

東京大学大学院情報理工学系研究科 教授。昭和57年3月、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。同年東京大学工学部講師、助教授、先端科学技術研究センター教授などを経て、平成18年東京大学大学院情報理工学系研究科教授、現在に至る。日本バーチャルリアリティ学会会長、監事などを務める。

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