血の海のなかの先輩の遺体
この時、周さんは高尾中学1年生だった。周の兄たち上級生は小銃で武装し、「中国人を追い出そう」と演説をして、校舎の守りを固めた。
数日後、高尾中学は中国軍に包囲された。銃撃戦が起こり、双方で死傷者を出した末に、校舎は中国軍に占拠された。中国軍に追い詰められて最後に残った兄たち数人は、銃を捨てて塀の崩れたところから、かろうじて逃げのびた。
しばらくして、中学校が再開されることとなり、周が朝、家を出ると駅前広場で黒山の人だかりができていた。なかの様子を窺った周さんは、ショックで顔面が蒼白になった。公開処刑が行われた直後で、3人の遺体が血の海の中で横たわっていた。そのうちの一人は周さんの知っている先輩だった。
その光景を見た瞬間、周さんの体の中にあった道徳心や勇気、正義感は凍りついてしまった。もう金輪際、政治に関わったりはすまいと心に誓った。その後、高校に入り、台湾大学の受験をめざして勉学に打ち込み、政治に関わることを避け続けた。
台湾大学に入学し、大学のそばの学寮で生活を始めた。国民党政権によるテロが続いており、少し不用意な発言した人はいつの間にか学校から消えていなくなった。しばらくすると近くの河原で銃殺死体で見つかる。
大学を卒業すると、1年半の義務兵役が始まった。炎天下に来る日も来る日も演習ばかりさせられた。蒋介石を頭とする一族郎党のために、辛い軍事訓練を受けて、「毛沢東をやっつけろ、それがお前たちの使命」だって? 腹の中では憤懣でいっぱいだった。
やっとのことで兵役を終えて、台湾大学に助手として戻った。腹の中で膨れ上がる反逆心がいつ爆発するか、もう限界に来ていた。そのころ日本の文部省が国費留学制度を開始した。この道しかない! 周さんは猛勉強して試験に合格し、東京への切符を手にしたのである。
「台湾?」
東京について、とうとう本当の自分に戻ることができたと舞い上がったが、1ヶ月も経つと別の思いが頭をもたげてきた。
学者になりたいという道は開け、私は前途洋々である。しかしそれは個人的な問題が解決されただけではないか。…
両親や兄妹、親戚、学友はみんな、今も台湾で苦しんでいる。蒋介石を頭とする国民党政府の圧政は、少しも改善されていないではないか。
(同上)
自分は一体、どうすべきなのか。頭を抱えながら、時間が過ぎていった。そんなある日、留学生会館の図書室で『台湾青年』という雑誌が目に留まった。「台湾?」。台湾と名前をつける事は、反体制・独立を意味することから、台湾国内では絶対にタブーだった。
なかを読んで驚いた。口にするのも憚られる「台湾独立」や「蒋介石の独裁体制」という言葉が並んでいる。しかもよく読めば、日本にいる留学生たちが作っているようだ。
たぶん自分と年格好もそう違わない留学生、ほんの一握りの台湾人青年たちがこんなにも勇敢に戦ってるのだ。その夜、周は興奮して一睡もできなかった。「怖い、怖い」と逃げている自分が、ひどく小さな、卑怯な人間に思われた。
そして今まで自分が受けた台湾の人々や台湾社会からの恩義を想うと、台湾の最高学府を出た自分が何もしなければ、一体この台湾は誰が救うのか、このままではいけない、という気持ちが高まっていった。