現代なら異常。偉人・吉田松陰が受けた武家の教育が凄まじかった

 

例えば、『武士の娘』に出てくるエピソードもご紹介しましょう。根っこは同じですから。

この『武士の娘』を書いた杉本鉞子(エツコと読みます)さんは明治6年に、今の新潟地方になる長岡藩の家老の娘として生まれるんです。サムライのしかも国家老の娘ですから、当時としては最上流に所属する家柄ですね。当然彼女にも子供の時から家庭教師のような先生がついています。

公の教育機関がなかった頃は、武士は自分たちで、学問を授けてくれる人を探さなきゃならなかったんですね。そしてまだ6歳だった鉞子ちゃんも、寅次郎少年と同じようにマンツーマンの授業を受けていたわけです。

その2時間の稽古中はずっと畳の上に正座です。もちろんお師匠さんは座布団に座っているんですよ。そして稽古中に一度だけ身体を動かしたことがあったんですって。ちなみに書くと、稽古中はお師匠さんも手と唇を動かす以外は身動き一つしなかったみたいです。その時の模様を引用すると、

唯一度、私が体を動かしたことがありました。丁度、お稽古の最中でした。どうしたわけでしたか、落ち着かなかったものですから、ほんの少しばかり体を傾けて、曲げていた膝を一寸ゆるめたのです。

6歳の子供が畳の上に正座して2時間じっとしていろというのが、無理な話だと今ならいうでしょうね。ところが昔の人たちはエラかった。引き続き引用します。

すると、お師匠さまのお顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、きびしい態度ながら、やさしく「お嬢さま、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋にひきとってお考えになられた方がよいと存じます」とおっしゃいました。

おいおい、ちょっと膝をゆるめただけで授業中止かい! と今なら言いそうですが、この鉞子ちゃんはエラかった。というか、私はこの次の行を読んでぶっ飛びましたから。

恥ずかしさの余り、私の小さな胸はつぶれるばかりでしたが、どうしてよろしいものやら判りませず、唯、うやうやしく床の間の孔子様の像にお辞儀をし、次いでお師匠さまにも頭をさげて、つつましくその部屋を退き、何時もお稽古が終わると父のところへゆくことにしていましたので、この時もそろそろと父の居間へ参りました。時間が早いので、父は驚きましたが、事情を知らないままに「おや、随分早くおすみだね」と申しましたが、きずついた私にはまるで死刑をつげる鐘の音のように響いたものでした。

恥ずかしさの余り」ですよ。たった6歳の少女が、2時間の稽古中に畳の上でちょっと足を崩しただけで、叱責を受け、そのことを恥ずかしいと感じる気位の高さというか、精神性の高さをかつての日本人は持っていたんですね。

これが何を意味するのか分かりますか?

こういう精神性の高さがあったから明治維新後の急速な文明開化が成し遂げられたんです。

ちなみに、この幕末頃に教育を受けた人たちが、維新後に海外の大学に留学して、そこで学んだこと、身に付けたことを日本で展開したんですね。そんな彼らの多くは、海外のそれぞれの派遣された大学で卒業時に首席だったりするんです。入学時には言葉もままならなかった後進国ジャパンから来た留学生が卒業する時には首席ですよ。これは彼らが優秀だったからでもあるんですが、もっと土台のところに精神性の高さがあったからでもあるんです。彼らの多くは、

 ● 国費で留学させて頂いて、首席にもなれずに日本に帰るのは恥ずかしい

と考えていたんです。国の名誉を背負って、そしてその学んだことを日本で広めるという使命に燃えて、勉学に励んだから、文字通り寸暇を惜しんで勉強したわけで、その結果現地の学生をごぼう抜き出来たわけですよ。今の日本人留学生でこの精神性を持っている人なんて、一人もいないと思いますよ。恥ずかしながら、私だって全く意識したことありませんから。

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け