「不平等条約」として知られる日米修好通商条約。なぜ井伊直弼らは勅許を経ずにこのような条約を結んでしまったのでしょうか。今回の無料メルマガ『弁護士谷原誠の【仕事の流儀】』では著者で現役弁護士の谷原さんが、幕末期に不平等条約が結ばれた背景を振り返りながら、「交渉の成否は技術論やテクニックで考えるのではなく、広い視野や複眼的なものの見方が大切」と力説しています。
話し合いは短い方がいいか?
こんにちは。弁護士の谷原誠です。
交渉は、数時間で合意に達することもあれば、長期にわたることがあります。相続に関する交渉などは、数年にわたり話し合いを続けることも珍しいことではありません。
交渉の長期化が予測されることについては、二つの意見が考えられます。まず、長く交渉をすることで有利な条件を取れる公算があるならば、じっくり腰を据えて話し合うべきという考え。一方、多少妥協してもさっさと合意した方が良いという考え方もあります。そうすれば、交渉に費やしてきたリソースを本来の事業に振り向けることができます。
交渉を続けるか、早く終わらせるか。いずれにしろ決断が必要になるわけですが、その判断をどのように行えばよいのでしょうか。今回は、日本の歴史的なエピソードから考えてみたいと思います。
江戸時代末期、ペリー来航その他、外国からの圧力により、鎖国体制を敷いていた幕府は米国から開国を迫られ、日米和親条約を締結。その後、米国総領事のハリスから、領事裁判権や関税自主権の制限等を含む不平等条約の締結を迫られました。
幕府では鎖国・攘夷派、開国派の間で議論を行うものの結論が出ず、返事を引き延ばすしかありませんでした。
不平等条約が、幕府にとって不利な条件であることは間違いありません。しかし議論を長引かせれば、圧倒的な戦力を持つ米国から攻撃を受ける危険は大。井伊直弼らは勅許のないまま日米修好通商条約を締結し、その後欧米各国と同様の条約を結ぶことになります。
その後の歴史はご存知の通り、ほどなくして明治維新が起こり、明治政府は最先端の欧米の技術等を取り入れながら、富国強兵に注力。不平等条約には苦労し、その解消に苦心しましたが、反面、日本は、一度も植民地支配を受けることなく近代国家として発展し、各国との不平等条約は解消されることとなりました。
不平等条約を拒否し続けたら、日本は、どうなったでしょうか。外国から侵略されていたでしょうか。それは、わかりません。しかし、不平等条約は、交渉として「負け」でしょうか。拒否したら、「勝ち」なのでしょうか。
開国と条約締結は、決断というより、その選択肢しか残されていなかったという面が強いのかもしれません。しかし、幕府の中には国力を冷静に分析し、将来の見通しを行いながら交渉に臨んでいた人もいたに違いありません。それが結果的にではありますが、長期的な利益につながりました。