「ひと手間プラス」で大ヒット。奇跡のサラダチキン誕生秘話

 

No1ブランド鶏で快進撃~鶏肉ブームの仕掛け人

アマタケの人気商品はサラダチキンだけではない。神奈川県逗子市のスーパー「スズキヤ」では、鶏肉の試食販売をやっていた。100グラム188円の鶏モモ肉。普通は130円前後だからちょっと高めだが、「煮込みすぎてもやわらかいまま」と、熱烈なファンがついている。アマタケが誇るブランド鶏「南部どり」だ。

「南部どり」は2つの品種を掛け合わせたブランド鶏だ。オスはうま味が濃いフランス原産の赤鶏。メスは肉質が柔らかい国産の白いニワトリだ。村上守弘専務は「ちょうどいい歯ごたえとうま味がミックスされて、それぞれのいいところを取って掛け合わせたということです」と説明する。

アマタケの本社があるのは岩手県・大船渡市。「南部どり」はその大船渡から車で2時間近く離れたところで育てられている。「渡り鳥や雑菌がないところ。自然豊かな岩手の空気とおいしい水をたどって山奥を探して選んだ」(村上)と言うように、雑菌を運ぶ渡り鳥も、人もほとんど来ない山奥にその鶏舎はあった。外から菌を持ち込まないように車も人も消毒。徹底的に衛生管理された鶏舎に「南部どり」のヒナが持ち込まれ、およそ50日間、飼育される。

アマタケはこの「南部どり」を実現不可能とされた方法で育てている。抗生物質などの薬を一切使用しない「完全無薬での飼育だ。

「食べた人の健康を考えた、そういう鶏を育てようと安全を徹底的に追求している」(村上)

通常、ニワトリのエサには抗生物質や合成抗菌剤などの薬が入っている。しかし、アマタケではそうした薬は使わず、かわりに抗菌作用のある納豆菌や乳酸菌など自然由来のものを配合している。

さらに寒さというストレスをかけないため「床暖房」を採用。これにはもうひとつ、「鶏糞がサラサラな状態になります。水分が高いと菌が発生しやすい。これを乾かすことによって菌の発生を抑える」(村上)という目的がある。こうして清潔に保つことも、薬を使わない飼育法のひとつなのだ。

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千葉市の幕張メッセで2月、食品業界最大の展示会「スーパーマーケット・トレードショー2018」が開かれていた。大小500のメーカーが自慢の新商品を披露するこのイベントに、アマタケのブースもあった。アマタケがアピールしていたのは、この春から売り出す新商品、パックした鶏肉だ。

4代目社長の甘竹秀企(52)は、「お肉の売り場を開店と同時に整えようとすると、朝早くからパートの方に来ていただかないとダメじゃないですか。それが今なかなかできないんです」と言う。通常、パック作業は店側がやるが、どこも人手不足悩む店の代わりにアマタケがやることで、販路を広げようという戦略的な商品だ。

従業員は約480人、年商103億円。鶏の生産から精肉、加工までを展開する鶏肉の総合メーカー・アマタケは、業界では中堅ながら革新的なビジネスを展開している。

 

アマタケ挑戦の歴史~震災がすべてを奪い去った

アマタケのヒット商品のひとつ、合鴨の「岩手鴨鍋セット」(754円)。大阪の生協「パルコープ」で扱っているが、「パルコープ」の鍋セットの中では2位の30倍、年間15万セットも売れる。アマタケでは30年以上も前から合鴨の飼育、加工販売に挑戦。今や国内シェア1位だという。

「新しいことをやってみたいという思いが当時ありまして、一般の方にはなじみは牛豚鶏と比べると少ないが、第4の畜種として挑戦したくて始めたのがきっかけです」(甘竹)

そんなアマタケの歴史は、まさに挑戦の歴史だった。創業は1964年。秀企の祖父・久が起こした家畜の飼料の販売会社が始まりだ。やがて久は養鶏や鶏肉の販売まで事業を拡大。鶏肉総合メーカーへの礎を築いた。

3代目は父の秀雄。不可能とされていた薬を全く使わない鶏の飼育法に挑戦。1999年に実現させた。

そして2004年、社長に就任した甘竹秀企の挑戦は味の改良だ。そのためにフランスから赤鶏を導入した。飼育法を一から見直し、多くの時間とコストをかけ、現在の「南部どり」を作り上げたのだ。

「生産性とかコストよりも、何よりもおいしい鶏を育てたい。そのために手間暇かけて育てています」(甘竹)

それぞれの代で新たな道を切り開き、成長を続けてきたアマタケ。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災で、大船渡は高さ17メートルもの巨大津波に飲み込まれた。海岸から2キロ離れたアマタケの本社も例外ではなかった。悪夢のような津波がアマタケのすべてを奪い去ったのだ。

本社と3つの工場は壊滅状態に。さらにエサが供給できなくなったため、100万羽を殺処分せざるを得なくなった。

「会社を見た瞬間は『もう終わったな』というのが最初の印象です。工場も中に車が突っ込んでいて、『よく崩れないな』という状況でした。ここで事業を再開するのは無理だろうなと思いました」(甘竹)

社員の頑張りで、4ヶ月後、本社工場だけはなんとか再開した。だが、原発事故の風評被害が岩手まで波及し、「大変なんてものではない。作った量の半分も売れない。4割くらいしか売れなかった」(甘竹)。商品が売れない上に復旧費用もかさむ一方。アマタケは倒産寸前にまで追い込まれた。

 

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