「浦島太郎」は、日本書紀の「浦嶋子伝記」の二次創作物だった?

 

神奈川県横須賀市は、ペリー来航で有名な浦賀の街です。この浦賀には、観福寺(観福寿寺という言い方もあるそうです)という寺がありました。明治六年に廃寺となり、今は慶運寺と蓮法寺という二つの寺がその遺構を受け継ぎます。

この観福寺の縁起を見ますと、「雄略天皇の時代(457年-479年)、相模国三浦半島出身の浦島太夫は、一家で丹後国に移住した。太夫には、太郎重長という息子がいた。(中略)300年もの間竜宮城にいたことを知るのであった。太郎は、父母の菩提を弔って小堂を建てて観音像と玉手箱を奉納すると、浜辺から何処ともなく消え去っていった。(中略)人々は、太郎の建てた小堂を立派な寺院として建て直し、太郎を浦島大明神、乙姫を亀化龍女神として像を造り、観音像とともに信仰している」。つまり、観福寺は浦島太郎が立てた寺であるというのです。また、ここには浦島太郎の墓というのも存在しています。

とんでもない話だとも思うのですが、この地の浦島という家名は、戦国時代から存在しており北条氏の家来であったこともわかっています。では、浦島太郎の子孫である可能性はあるのかという疑問が沸くのですが、そもそもの縁起自体に問題があります。

まず「浦島太夫」という呼び方がおかしい。太夫(たゆう)というのは竹本義太夫に代表されるように江戸時代に流行した呼び名です。遊郭の花魁にも用いられ高貴な人の呼称となりました。

中国を真似て日本に取り込まれた称号は、大夫(だいぶ)であり、貴族である人の呼称として用いられました。貴族であるというのは、五位以上の位をもらっていたということです。横須賀の浦賀の地に官吏として赴任した貴族がいたという可能性を百パーセント否定することはできませんが、この地は七世紀にできた相模国三浦郡(御浦郡)で、国府のあった海老名や平塚、大磯あたりならまだしも、三浦郡の郡衙のあった葉山からも遠く離れた場所です。まず、あり得ないのです。

ましてや、雄略天皇の時代はまだ武蔵国の一部です。すなわち、武蔵国のさきたま古墳出土の鉄剣に杖刀人首としてオワケが名前を刻んだ時代に、その武蔵国の端の端に貴族が赴任していたということは、やはりあり得ないのです。

その子どもの名前が太郎重長といったというと、最早完全に嘘だろうということになります。なぜなら、太郎という名前は、嵯峨天皇の第一皇子につけたのが最初だからです。嵯峨天皇は八百年頃の人ですから、雄略天皇の時とはかけ離れています。つまり、縁起の内容自体に無理があるのです。加えて、重長という名前は、戦国時代の名前です。縁起自体が作られたのが江戸時代で、創作であったということかと推測します。

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