「浦島太郎」は、日本書紀の「浦嶋子伝記」の二次創作物だった?

 

浦島太郎の「原作」は日本書紀の記述だった

そもそも、浦島太郎の話はいつ頃の話なのかというと、日本書紀の雄略天皇の二十二年に以下のような記述として残されています。「秋七月、丹波国余社郡管川の人、瑞江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)は船に乗り釣りをし、遂に大亀を得る。亀はたちまち女になる。浦嶋子は感じ婦(妻)にした。あい従って海に入り、蓬莱山に至って、仙衆(ひじり、仙人のこと)を見る。この(物)語は別巻にあり」とされています。

これだけの記述で終わっています。つまり、日本書紀は正史ですから、史実の一つとして瑞江浦嶋子の話を掲載しているのです。丹波国余社郡管川は、京都府与謝郡伊根町筒川です。この伊根町には、浦嶋神社(宇良神社)が存在し、浦島子の伝説を伝えています。

非常に面白いのは、どこまで本気であったのかわかりませんが、鎌倉時代初期に作られた「水鏡」の淳和天皇の条の中には次のような記述があります。

「天長二年十一月四日に、帝は嵯峨法皇の四十歳のお祝いをなさった。今年、浦島子が帰った。持ってきた玉の箱を開けたら、紫の雲が西の方に昇って、若かった体はたちまち翁となり、歩くこともおぼつかないほどになった。雄略天皇の時代にいなくなって、今年、三百四十七年目に帰ってきたのだ」

これが元で浦島太郎の話ができたわけではありません。日本書紀の中にも、語は別巻にありと書かれていたように、原本はありませんが、丹後国風土記の中にその話は残ります。

この浦島子伝記を書いたのは、伊余部馬養(いよべのうまかい)という人です。大宝律令の選定に関わった才人で、多くの漢詩も残しています。彼の書いた「浦島子伝記」には、既に、結末も語られていましたので、水鏡の作者がこの話を読み、面白がって文中に記載したのです。そうすることで物語は真実になり、物語の描く世界は現実に存在するという夢を見せてくれたのです。

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