幻や錯覚にも価値がある
そんなわけで、依然として「サイクルの魔法」は現代人に対しても極めて有効です。私たちは、サイクルの魔法を使って「永遠」という幻を見ることができるのです。未来は永遠に持続し、この世に終りはなく、私たち人間も輪廻転生を繰り返す不滅の存在です。いくら理性ではそれが非科学的で不合理な幻想だと知っていても、私たちの心中の子供はそれを求めています。ときには死へのカウントダウンという現実を忘れて「終りなき世のめでたさ」を祝いたいのです。
ロマン主義の芸術運動には近代の産業社会に対する反逆という一面がありました。19世紀当時の、合理主義と効率主義、唯物主義と科学主義によって支えられていた無味乾燥な社会にあって、彼らは人間性の回復を求めました。当時、人間の精神活動のうちでは合理的な「理性」ばかりが大切にされ、一見不合理な「感情」や「直観」などは邪魔ものあつかいされたのです。もちろん、ビジネスに感情を持ち込むことは許されず、あくまでも理性的にものごとを進めるのが正しいとされました。
しかし、スイスの心理学者C.G.ユングも指摘しているように、感情は好き嫌いや善悪などの「価値判断」をつかさどる大切な精神機能です。こうした感情を抜きにした理性一辺倒の社会はバランスを欠いて、非人間的で窮屈なものにならざるをえないのです。
ロマン主義の運動は、人間性を解放するために、恋愛といった感情が主役となるテーマを好んで取り上げ、幽霊や魔術、狂気や犯罪などの非合理なできごとに関心をもちました。彼らは合理主義者たちが見向きもしなかった、人間性の側面に光を当てたのです。
幻や錯覚は、合理的な科学的精神から見れば、単なる「まちがい」であり、意味のないものかもしれません。しかし、人間はときに幻によって救われ、錯覚さえも楽しむのです。唯物論的には意味のない虚構も、心理的にはリアルな現実であり、人間の心も行動も、こうした幻や錯覚によって動かされるのです。幻が現実を産み出すとすれば、そこには何らかの意味がある。幻や錯覚にも人間にとっては価値があるのです。
image by: Chih Hsuan Peng / Shutterstock.com