日本を「時代遅れ」にしている、入学式や入社式という悪習慣

 

ということは入学式で問われているのは、在校生と教員が、より新しい世代を迎えるために、自分たちが変わるということのはずです。そうではなくて、「ここに入って来たことはおめでたい」というのは、僭越を通り越して間抜けとしか言いようがありません。

まして、小学校の場合に「幼稚園児が集団行動に馴染んでいない」から「小一プロブレムを起こす」とか、中学校の場合には「一年生が先輩後輩のヒエラルキーに馴染めずに中一プロブレムを起こす」などといって、頭を抱えているわけです。

だったら、集団行動の訓練について方法論を考えるとか、バカみたいに先輩が威張るだけの野蛮で低脳なリーダーシップのスタイルをやめるとか、自分たちが変わらなくてはいけないのに、「プロブレムだとウロウロするこれもまた滑稽と言えましょう。

入学式で奇妙なのは、「来賓」の存在です。選挙運動の売名でやってくる政治家などは、その場で逮捕とまではいかなくても、「当落線上の二流政治家」という印象を拡散するだけなので、まだご愛嬌ですが、問題は教育関係者です。

教委とかPTAというのは、本来の意味としては学校の縁の下の力持ちであるべきです。究極には子供達のために良い教育ができるように尽くし、そのためには現場の教員が思い切り働けるように尽くすべき存在でしょう。

にも関わらず、教委やPTAが「来賓」だということになり、校長までがこうした人々に頭を下げて権威を落とし、では、その「来賓」が何か気の利いたことを言うかというと、型通りの挨拶しかしない…これでは「この社会はこのようなナンセンスで形式的なヒエラルキーでできているということを子供に教えて絶望させるためにやっているようなものです。

とにかく、教委とかPTAが威張るのは不自然で、まして校長より上席に座り、しかも偉そうなスピーチをする割に、中身は型通りというのは、「子女の訓育」とか「修身、修養」といった価値観の対極にあるトホホなものだということを真面目に考えていただきたいです。

そう言えば「東大の入学式」というのは、毎年総長訓示が話題になりますが、あれも相当にトホホな感じですね。特に、最近は「どうせお前ら新入生の世代は、ロクにモノを考えていないだろ的な上から目線の訓示が目立ちますね。そういうことをやればやるほど「終わった感」が出るということに「気づかない鈍感力」のある人ばかりが総長になるのかもしれませんが、猛省していただきたいです。

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