さて、予想通り百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されるとして、今のままで良いのかどうか、よくよく考えないといけない。まず変わるべきは、宮内庁ではないだろうか。
世界遺産の理念は観光振興ではない。人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ建築、遺跡、自然を守り、後世に残すことである。
それを承知であえて言うなら、世界遺産になる以上、文化財として学術調査が行われやすい環境にしていく必要があるのではないか。
仁徳天皇陵といわれる古墳も、誰の墓かは定かでない。所在地の地名のついた「大仙陵古墳」が正式名称であろう。
古墳群のうち「天皇陵」とされたものは、古代からそのように伝えられてきたわけではない。江戸末期から明治にかけ、幕府や維新政府が、万世一系として天皇を政治利用する意図から“創設”されたといえる。
古代から中世までの天皇の陵墓がどこにあるかは、江戸時代になると全く分からなくなっていたのである。そもそも、古墳に被葬者名は残されていない。
確たる証拠なしに、神武天皇から連なる万世一系の天皇の墓とみなす陵墓整備が、水戸藩による幕府への進言、天皇の権威を背景に成立した明治維新政府の手で進められたと考えられる。宮内庁が天皇陵墓の発掘調査を許さなかった理由とも関係する事実かもしれない。
かつて日経新聞奈良支局長のインタビューに宮内庁調査官はこう答えた。「陵墓は皇室の祖先のお墓です。今も祭祀が行われています。静安と尊厳を保つのが本義です」
もちろん、大阪府、堺市などの世界遺産運動を背景に、宮内庁の姿勢も徐々に軟化してきてはいる。
宮内庁の内部規則が変更され、2008年2月、考古学や歴史学など10以上の学会の代表者たちが、初めて天皇陵古墳に入った。そして昨年10月、宮内庁と堺市が仁徳天皇陵の共同発掘調査を実施した。
古墳保存のための基礎調査という名目だが、天皇陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めてだった。
膨大な人員と10年単位の年月をかけて巨大古墳をつくらせた権力者はどんな人たちだったのか。日本史の謎が古墳調査で少しでも解明されれば、本当の意味で世界遺産となるだろう。
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