前回、『コロナ禍に想う。日本が今一度、脱近代、脱合理を目指すべき理由』で、人間の文明発達の歴史から、欧米と日本の第一次産業(農業、漁業など)の相違点に至るまでを取り上げたジャーナリストの高野孟さん。自身のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』で前回から続いて、「コロナ禍を機に起こるべき価値観の転換」と題したシリーズの第二弾として、「日本近代史への物差しの当て方」というテーマで、旧民主党結成当時のために高野さんが作成したというチャート図を示しながら、明治以降の日本の近代史を総括しています。
※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2020年7月20日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
プロフィール:高野孟(たかの・はじめ)
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。
コロナ禍を機に起こるべき価値観の転換《その2》ーー日本近代史への物差しの当て方
前号《その1》で、コロナ禍を逆バネとして起こるべきは「稲作・漁撈・発酵文化の再生」であり、それは私が3・11の後に構想していたことではあったけれども、不発に終わったことを述べた。
あのフクシマの災禍の後では日本は、
(1) 脱原発を即断し、
(2) 再生可能エネルギー中心の戦略に転換し、
(3) さらにその先に、自然共生・地方分散・地産地消型
の21世紀的な社会のあり方を構築しなければならなかったが、その場合に、
(4) 日本は世界に誇るべき稲作・漁撈中心の循環型文明
の数千年に及ぶ歴史を持っていて、日本人自身がその基盤的な価値に気付いてそれを再興することができれば、誰よりも早く21世紀的な暮らしぶりを実現できるだろう、ーーと考えた。しかしドイツが遠目でフクシマを見て、直ちに(1)から(2)へと踏み込んだというのに、肝心の日本は(1)にさえ足を踏み出すことができなかった。
今のままでは、コロナ禍の後でも同じようなことが起きて、この国は今度もまた何ら思い切った価値観の転換ができないまま、マストが折れ舵を失った難破船のように漂流していくだけになるだろう。ドイツと比べた日本のこの無残さは何なのかを突き詰めると、結局は、日本は明治維新から150 年を過ぎてもまだ「発展途上国」を卒業できないでいるのに対し、ドイツはとっくの昔から「先進成熟国」であるという、とてつもなく深刻な現実に直面せざるを得ない。
「百年目の大転換」の未達成
本誌の古くからの読者にはすでにお馴染みのことで、ここでまた繰り返すのは気が引けるが、私は1995年冬から96年夏まで約1年半の旧民主党結成のための理念・政策議論に参加する中で、「百年目の大転換のイメージ」と題した一片のチャートを作成・配布し、リベラルな新党が登場すべき歴史的な意味合いを論じた。
当時は、自社さ政権の成立で野党となった新生党、日本新党、民社党、公明党などの諸党が小沢一郎の主導下で94年12月に巨大野党=新進党を結成し、その小沢が「新保守主義」を標榜したことから、マスコミは「自民党=旧保守vs新進党=新保守」の2大政党制時代の到来を騒ぎ立てていた。けれども私らは「そんなものある訳がないだろうが」という立場で、その新旧保守の間にリベラル新党が割って入ることによって新進党は自ずと分解して、「保守vsリベラル」の新しい構図が現出するという見通しを持った。
なぜそうなのかと言えば、当時の(それが成し遂げられていないという意味では今も同じなのだが)メガトレンドで捉えた場合の現今日本の時代の課題は(1996年起点にして数えれば、手前から)、
・冷戦終結から7年、
・55年体制から41年、
・第2次大戦から51年
と物差しの当て方もいろいろあるけれども、結局のところ、
・明治維新から128年、それから21年間の混沌的助走期
を経て、
・明治憲法から107年。
というのが一番分かりやすい物差しの当て方なのではないか。そこから始まった「日本的発展途上国」段階が今も終わることができずに苦悶していて、それを終わらせることは、その旧段階の属性の一部でしかない自民党にもその亜流の新保守なるものにもできず、新たなリベラル的な市民型政党の登場によって初めて達成されるはずで、そこにこそこの新党が生まれるべき言わば歴史の必然が存するということになった。
政局論的な見通しは正しくて、旧民主党ができるとたちまち新進党はバラケ始めて98年の民主党再結成となり、そのプロセスは5年後の民由合併で新進党の張本人だった小沢までが民主党の軍門に下ったことで完結する。それによって確かに民主党は、数の上では大きくなって、自民党に政権交代を迫るほどの勢力にはなったのだけれども、そのように数を増やすのに忙しくて、結成当初の「百年目の大転換」という歴史的使命感はむしろ薄まってしまった。その意味で政策論的な見通しは誤ったと言える。
そのため、2009年にせっかく政権交代を果たしたにも関わらず、鳩山由紀夫政権は辺野古問題に、菅直人政権はフクシマ対応という、それぞれにシビアな目先の課題に追われて短命に終わり、その後の野田佳彦政権は自民党への“大政奉還”以外に何の知恵もない体たらく。そのため96年民主党の「百年目の大転換」イメージは実を結ぶことはなかった。