富士山大噴火の元凶扱い。庶民から憎悪を買って逝った綱吉の悲惨

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江戸文化が爛漫に咲き誇る元禄の世と、改元後の宝永時代を立て続けに襲った大地震。宝永地震に至っては直後に富士山大噴火が発生し多くの民が被災しましたが、これらの天災の「元凶扱い」されたのが時の為政者、徳川綱吉でした。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では著者の早見さんが、そんな綱吉を巡る醜聞やそこから発展した怪談を紹介しています。

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元禄宝永大地震と犬公方「第一回 泰平の世を揺るがせた大地震」

「時に元禄15年12月14日、江戸の夜空を震わせて響くは山鹿流の陣太鼓」

昭和の国民的歌手、三波春男のヒット曲、『俵星玄蕃』の冒頭で語られる名台詞です。講談調の台詞入りの長い歌とあって、カラオケ酒場ではのど自慢たちがマイクを握り、気持ち良さそうに歌っていました。昭和世代にサラリーマン生活を送った読者なら、上司の歌にかけ声や拍手をし、座を盛り上げたのではないでしょうか。

ご存じ、忠臣蔵のクライマックス、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの場面です。大石内蔵助は山鹿流の兵学を学び、陣太鼓を打ち鳴らして浪士たちの指揮を執りました。白雪が深々と降り積もる師走の寒夜、四十七士は主君浅野内匠頭の仇、吉良上野介を探します。

忠臣蔵の話は本題ではありませんのでこれくらいに留めます。赤穂浪士の討ち入りのおよそ1年後、江戸ばかりか関東の夜空を震撼させる大地震が起きました。元禄16(1703)年11月23日、新暦にして12月31日の午前2時頃、相模トラフを震源とする推定マグニチュード7.9~8.5という大震災でした。迷信深い江戸の庶民に中には、その年の2月に切腹させられた赤穂浪士の祟りだと囃し立てる者もいました。

この元禄関東地震は将軍のお膝元である江戸を始め、武蔵、安房、上総、下総、相模、伊豆、甲斐という関東の広範囲に亘って大きな被害をもたらしました。江戸で、いや、日本で最も頑強な造りであったであろう江戸城の櫓や多くの建物が崩壊、大手門は堀の水が溢れ返り、最大の番所である百人屋敷も潰れました。

江戸城ですらこんな有様ですから、市中の状況たるや悲惨を極めます。

江戸湾に津波が押し寄せ、品川の浜に避難した人々が呑まれてしまいました。津波は隅田川を遡上し、幕府最高の実力者柳沢吉保の下屋敷、六義園も襲います。六義園は今も名庭園で有名ですが、この時の塩害により庭内の松が悉く枯れてしまい、復旧するのに30年を要したそうです。

津波は房総半島北東端の犬吠岬から伊豆半島南端の下田に至る一帯を襲います。安房小湊近辺で570軒、御宿で440軒、下田で500軒もの人家が流されてしまいました。

徳川幕府は大地震による人心の荒廃を刷新しようと朝廷に改元を奏請します。結果、元禄から宝永に元号が改まります。ところが、皮肉にも元禄関東大地震の僅か4年後、宝永4(1707)年10月4日、新暦にして10月28日、推定マグニチュード8.4~8.6という超巨大地震が日本を襲い、更には49日後、富士山が大噴火しました。この大噴火により宝永山が誕生しました。

今月は立て続けに起きた巨大地震を通し、江戸時代中期の政治、経済にも触れたいと思います。

元禄宝永大地震が発生した時の為政者は徳川幕府五代将軍綱吉です。「生類憐みの令」で有名ですね。生き物を大切にせよという法令で、綱吉が戌年生まれであったことから特に犬が保護されたことから綱吉は、「犬公方」と呼ばれています。「犬公方」綱吉は、「生類憐みの令」のイメージが強く、評判が良くありません。綱吉への反発から水戸の黄門さまこと水戸徳川家当主光圀が世直しの旅に出る漫遊記が語られるようになりました。

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